まさか自分が癌とは −井澤光雄さん− New!!


教宣部でめざめた −田山徳子さん−
憲兵隊がおやじに −佐藤金三さん− 失意の中で行商に −君塚茂雄さん−
薄紙の「母の日記」 −島田多鶴子さん− 「期待に応えたい」 −冨田恒彦さん−
労災保険で助かる −小林力さん− 思いがけぬ分会長 −片見学さん−
5歳で戦争を体験 −江野宗太郎さん− 不用の借金数億円 −今井一雄さん−
お化け地蔵の縁日 −平山輝雄さん− 6年前手術に成功 −松平博行さん−
小説家志望の青春 −小川治郎さん− 今亡き親方に感謝 −石田敏晴さん−
つらい修行の支え −宮島惇夫さん− 灼熱地獄で玉音聞く −小山七郎さん−
同宿で飲んだ大工 −島崎久保さん− 新居を見上げる妻 −小林次郎さん−
2つの大きな体験 −菅谷政一さん− 転職支えてくれた −松岡秀幸さん−
誤診で盲腸が悪化 −吉田司さん− 親の笑顔は世界一 −新妻操さん−
病院で半身不随に −菅原肖治さん− 9人で分会つくる −斉藤恒男さん−
半生が詰まる宝物 −廣田隆雄さん− 現場で骨折し入院 −武田良次さん−
叔母夫婦が導いた −野口邦子さん− 惨劇地に住む因縁 −荒川忠助さん−
孤独な老人ばかり −笠原昴さん− 施主の和室で洋食 −早川隆さん−
生きて帰ったが… −菅野正二郎さん− 大工でよかった −中村秀男さん−
日本は負けるぞ −馬場春男さん− 過ちはくり返さない −菅原輝夫さん−
私を変えた組合活動 −吉田司さん− 少年飛行兵として終戦 −原豊さん−
屋上で涙することも −辻仁さん− 戦死した同窓生思い −時田マサ枝さん−
青春のサークル仲間 −前田常雄さん− 田甫から古代の大木 −小林富也さん−
青春を奪った徴兵 −三宅孝吉さん− 東京大空襲の下町で −寺山貞幸さん−
戻らぬ金と形見の長男 −白田のり子さん− 肺ガンで逝った二男 −小野満さんー
初恋はホロ苦く −小幡昇治さんー 内定した就職断わり −柄澤文雄さんー
野球三昧の中学時代 −金子幸由さん− 苦手だった川の水泳 −前垣欣司さん−
故郷延岡の空襲 −矢野ミキエさん− 看護婦資格とり帰京 −佐藤恵世さん−
敗戦直後に見た広島 −重本晴男さん− 気合いを入れ大掃除 −島田多鶴子さん−
白い霊柩車の夢 −和田武文さん− 河津の春に干物売り −宮永信代さん−
中学での説教と戦争 −大高健次さん− 役に立った登柱訓練 −豊田佳二さん−
愛をうたう尾長鳥 −安藤浅子さん− やさしく勤勉な社長 −塚橋誠至さん−
度肝を抜く落雷 −浜崎時子さん− 日雇建保の闘い −町田信次郎さん−
鳶も恐れる高所に −天野清正さん− 心の支え恩師の言 −野崎寿江さん−
苦心した新聞作り−工藤博章さん− 米の没収を免れる −小林富也さん−
捨てられた桑の皮 −小林次夫さん− 工事完成に連日奮闘 −原島正義さん−
脳裏に東京の地図が −岩武憲生さん− 人生の師を想う −阿部房江さん−
同乗した父の一言 −入江道行さん− 盲導犬との1年余 −武田リリさん−
悩んだ末の3人目 −小林サヨさん− 花と緑の博覧会 −畠 英章さん−
親父、ありがとう −山口正年さん− 重装備の行軍訓練 −佐野 茂さん−
私の体験が本に −蜷川喜美さん− 持金を聞く外科医 −杉本信義さん−
病気で話せない妻 −小林富也さん− 焼け跡が遊び場 −中田 実さん−
懐かしい播磨言葉 −岩武憲生さん− 赤痢にかかって −栗原進一さん−
「くるものが来た」 −大瀬秀之さん− 悪徳不動産に騙され −広沢武夫さん−
90歳で聖者の行進 −大野 守さん− 3人目出産の日に −江澤とりさん−
不屈の活動家 −高野良夫さん− 自分を無にする −神田和歌子さん−
平和の尊さを −岩武佐代子さん− 親方の一言から −可兒美憲さん−
残業徹夜の3ヶ月 −早川 隆さん− 運転手の心に涙 −鈴木清江さん−
有事法制を阻止して今年を忘れえぬ年に −本田幸一さん− 組合の初歩教わる −西野 弘さん−
仲間ができて幸せ −森 健造さん− 皆に好かれること −本間忠男さん−
刈谷さんの心継ぐ −塚橋誠二さん− 3mもの豪雪を体験 −吉田 司さん−
湧きあがる感動が −荒井春男さん− 生協で「家庭班」づくり −老田靖雄さん−
道に行く人なしや −広田隆雄さん− 昔の職人の心意気 −関根和夫さん−
生き方を考えた −金丸秀義さん− 軍隊は「運隊」とも −伊藤午郎さん−

米の没収を免れる
闇商売で生き抜いた頃

小林富也
 終戦と同時に少ない物資の闇価格は高騰した。昭和21年に友人の教師が、家族に病人が出て、栄養をつけようと闇市で卵を買ったら、1ケ月の給料が消えてしまった。私は昭和11年、米屋の小僧の時分、月掛2円の10年満期の保険に加入した。満期になれば、米15俵(900キロ)を買える予定だったが、満期になった金で買えたのは闇米7キロだった。まさに闇値は100倍以上だった。
 月給取りでは、闇値に匹敵する給料はもらえない。箪笥の中味を持ち出して、農家を回り、物々交換で食料を手に入れて生活した。多くの人々がこのようにして苦しい時代を生き抜いていた。私個人は闇商人で生き抜いた。
 昭和21年のある日曜日、宇都宮から遠く離れた所にある知り合いの農家で30キロの米を買って列車に乗った。乗客の大部分は大なり小なり米を持っていた。
 小山駅に着いた時、乗客の一人が「また、やられた!」と叫んで、リュックの米を車内の通路にぶちまけた。他には袋ごと通路に投げ捨てた人もいた。そこに警官隊が入ってきた。「自分の米を持って下車すること」と言われ降ろされた。警官は網棚の上や座席の下まで調べた。
 車外に降りた人は警官に守られ、長い行列を作って学校に連れて行かれた。そこには食料営団の人が統制違反の米を没収するのに待っていた。警官が見守る中、次々と没収され、証明書を渡されて出て行った。
 自分の番が来た時、「我が家には長患いの病人がいて、お粥を食べさせる。病人を殺さないでくれ」と泣き落としで同情を買った。3キロの没収で証明書をもらうだけで済んだ。27キロを背負い、証明書を見せびらかして警官の見守る中、列車に乗った。3キロの損で済み、買出しは成功だった。
(中野)



捨てられた桑の皮
苦渋に満ちた学童疎開

小林次夫
 1945年2月末、私は学童疎開先の福島県白河から国民学校初等科卒業で帰京し、3月10日の大空襲のすぐ後に父の郷里であり、祖母と叔母が暮らす山梨県塩山に2度目の疎開をした。
 塩山第2国民学校高等科1年生の学校生活では、軍の施設構築の土方作業に勤労動員で駆り出される日々だった。
 夏休みの宿題は、軍服の生地の材料になる桑の木の皮を乾燥させたもの7貫目(約26キロ)を8月10日に全員供出せよというものであった。
 山梨県は養蚕農家が多く、桑畑がある。私たち非農家の生徒は教師に引率され、毎日農家を訪問して、長さ1m、直径25ミリメートルの切り取った枝の皮を剥ぐ作業に励んだ。期日が来て、集めた皮を秤にかけると50匁不足していた。今さらどうしようもなく学校に運んだ。
 校庭で教師が天秤で計り始めたが、8月の炎天下、時間がかかるのを嫌って自主申告に切り替えた。私の4番目くらい前の高野君の番になり、彼は正直に「6貫950匁」と答えた。途端に教師のビンタが彼の両頬に炸裂した。正直に答えるべきか迷っているうちに私の番になって、咄嗟に「7貫50匁」と答えてしまった。教師は再び彼に「疎開者の小林が達成したのに、土地のお前はなんだ!」といってビンタを張った。私はしばらく彼の顔をまともに見る事が出来なかった。
 その5日後、日本は無条件降伏した。
 新学期が始まると、それまで私たちをさんざん殴った教師達は「日本は民主主義になる」と言い出した。
 10月の長雨の頃、塩山駅に行った叔母が「お前たちが剥いだ桑の皮が駅の構内で腐りかけている」と教えてくれた。その時、私の胸にいいようもない、憤りと虚しさがこみ上げてきたのである。
(荒川)



工事完成に連日奮闘
避暑気分のない清里の夏

原島正義
  毎年、夏が近づくと思い出す出来事があります。今から40年前の6月1日、勤務するある市役所の林間学校施設の建設工事が予定工期より遅れているので、上司と共に山梨県北巨摩郡高根町清里の現場に派遣されました。
 ウワー!これで夏休みの7月21日から使用できるのかと思われる程遅れているのに驚きました。何としても間に合わせてくれと上司は指示事項を残して帰ってしまいました。残された私は清里駅前の利根川旅館に投宿して、連日朝早くから建設業者が帰るまで現場に張りついて、ひたすら早期完成を現場監督にお願いするのが仕事でした。
 連日に及ぶ建設業者の鋭意努力で、本造2階建ての宿舎棟と平屋建ての給食棟は何とか使用できるまでにこぎつけました。しかし、鉄筋コンクリート造のし尿浄化槽があと少しで完成せず、夏休みに入ってしまいました。
 7月21日には小学5年生と先生たち100人の第1陣がやって来ました。
 トイレの汚水の放流が心配でしたが、1日だけ汲取槽で間に合わせ、翌日からはし尿槽が放流可能になり、ホッと胸をなでおろし、建設業者の監督と、思わず握手して喜びを分かち合いました。
 その後完成までには、なお半月ほどかかりました。少々不完全な施設でも生徒達が入れ替わりでやって来て、自然いっぱいの清里の林間学間を楽しんでいる姿を見て肩の荷を下ろしました。
 市役所に戻った後も公会堂や小、中学校の建設現場の担当を務めましたが、なぜかし尿処理施設がいつも遅れるのには苦笑させられました。
 今でこそ清里高原は雄大な八ヶ岳をバックに若者たちが押し寄せて大変な賑わいですが、当時はとても高原リゾート気分など味わえない厳しかった経験が懐かしいです。
(西多摩)



脳裏に東京の地図が
役立つ学生時代のバイト

岩武憲生
 今でこそ、この東京の街を何の不自由もなく車で移動していますが、昭和48年、関西育ちで東京を知らない大阪の大学生だった頃、こんなことがありました。
 父が東京転勤になり、夏休みは初めて東京に帰ることになりました。休み中は、ある会社のトラック運転手のアルバイトを土地勘のないこの東京で始めました。
 初日は運転助手、次の日からは1人で動くことになりました。現場住所と積込み材料の配達書が渡され、倉庫から材料を積み出し、千葉や埼玉方面へ、ハンドルの上に地図帳をのせて走りました。
 現場付近になると、足場の組まれた建物を探し、現場監督さんに材料置場を聞いて材料を下ろします。また、材料引上げの時も同様でした。
 ある時、材料引上げの量が多く、「この車をどうやって持って帰ろうか…」と思案したことがありました。仕方なく仮積みをした後、急ブレーキをかけて、慣性の法則でうまくトラックに納めました。その後、話したこともない年輩の運転手さんに、荷造りロープの結び方を教わって、縛って帰ったこともありました。
 大阪に戻ってからも、結び方を友だちに披露して、喜んでいました。今ではいい経験をしたと思っています。
 ところで、積荷はというと、アスファルト60キログラム、金網メッシュ、田島の三ツ星シート、大きな釜でした。この積荷を見ると、会社は防水業とわかりました。その後、東京土建に加入してアスファルト防水の仕事を知りました。
 夏休みの約1ヶ月、当時走った道筋は時と共に変わってきていますが、記憶を辿れば、脳裏に東京の地図が出来上がっていました。今もそれを頼りに、東京を走っています。
(多摩稲城)



人生の師を想う
励ましと突然の別れ

阿部房江
 4年前の8月の末、夫の看病生活が続き、人工呼吸器をつけていつ別れが来るかと不安な毎日を送っていました。
 そんな折、届いた封書に薙刀の師であり、母とも姉とも慕っていた方が死の直前に綴った言葉が入っていたのです。
 「有難うございます。感謝申し上げます。現世でご縁を頂き嬉しく思います。何も御礼出来ずすみませんでした。御家で御仏様に私の成仏をお祈り願いたく、どうぞよろしく。最後までお願いばかりで相済みません」
 その年の年賀状では看病に追われる私に励ましの言葉が書かれていました。ご本人はその年の3月に入院、手術して1ヶ月程で退院できるくらいに回復したそうですが、急に容態が悪化し6月に亡くなったとのことでした。
 師は独身で妹さんとも別に住んでおられ、誰に連絡してよいのかわからず、身内の方々と華道の関係の方で葬儀をすませたそうです。その後病院から持ち帰った所持品の中に、私に伝えて欲しいとこの文章があったのです。
 師は夫の看病に疲れた私に「人生には10の苦しみが与えられているのよ。もう9つも乗り越えたから、これが最後の10なのよ」と言ってくださり、どんなに勇気づけられたことか。
 人前では涙を見せまいと肩肘はって、夫を送った後に師にお会いして思いっきり辛さをぶつけて泣こうと思っていた矢先のことでした。
 華道の家元で薙刀、茶道、書も奥義をきわめ、小柄で楚々とした方でした。けっして自分を前に出さない謙虚な生き方に多くを学びました。最後まで私の事を心にとめて下さった事に感謝しています。
 ご自分で彫られた地蔵菩薩の写真の日付は亡くなられた日と同じ。お地蔵さまとよく似た面影を忘れる事ができません。
(杉並)



同乗した父の一言
肝に銘じた安全運転

入江道行
 私が運転免許を取得したのは、20年も前の40代の事でした。
 取得した当時の私の家族は、父と母を含めて総勢7人で、子供は女ばかり5歳、3歳、1歳の3人でした。父は80歳、母は70歳で高齢者と幼児の家族です。父は足が不自由で階段を上り下りするのに大変難儀しておりました。自ずと外出も少なく、電車やバスなどを利用して外出する事は皆無と言っていい程の日常でした。
 母が突然「益子」に連れて行ってくれと言い出しました。父と孫を田舎の法事に連れて行くのに自動車で行きたいと言うのです。
 当時はまだ東北道も常磐道も開通しておらず、一般国道を通って益子まで約150キロの道のりでした。その日は益子に泊り、翌日は法事を済ませ夕方、日のあるうちに帰って来ました。
 ところが、後日「あいつの車には2度と乗りたくない」と父が言っていたと母が言いました。
 父に訳を聞くと、尻があっちにいったりこっちにいったりして危なくてしようがない、と言いはりました。乱暴な運転をした覚えもなく、急ブレーキや急発進をした事も無いのに、と思いましたが、父に言わせれば乱暴だとの事です。
 父の年齢を考えたならばそうかもしれません。発進するにしても止めるにしても、自分だけの感覚で判断してはだめだと父に教えられました。
 免許を取って1年未満のまだ若葉マークをつけて運転している私には、思いもよらない高度の運転技術を父は求めていたようです。
 私が初心者の時に父に言われた事が、安全な運転とは何かを自分に問いかけるきっかけになりました。
(台東)



盲導犬との1年余
思いやりの心教わる

武田リリ
 近所の人に拾われた生後4ケ月位の黒い子犬。クッキーと名付けて預かってから13年。近所のアイドルだったクッキーはリンパ癌で死んだ。
 そんなときにパピーウォーカーを申し込んでいた人の都合が悪くなり、私がその犬を引き受ける事に。昨年の2月のことでした。
 ケージから出てきた犬を見て、知人は「あっ、チョコラブだよ」と言った。珍しい色なんだそうです。みんなで「名前は何がいいか」と言ってたら「名前はジャッキーです」とアイメイト協会の人がいとも簡単にいう。私たちは唖然となった。盲導犬についての知識のなさに、一抹の不安があった。規則どおりにうまく育てられるか、とりあえず説明を聞き、ぬいぐるみのような子犬を預かった。
 子犬はめまぐるしい程の早さで大きくなり、6ケ月のころには17キログラムにもなります。
 盲導犬って賢い犬だな、どうして目の不自由な人の行く所がわかるのかしら…。
 盲導犬は使用者の人がリードして、犬は安全な道へ案内するので、駅前やお店の前に放置自転車などがあると困るそうです。
 ジャッキーが盲導犬の子犬であることが知れ渡ると、郵便局や銀行も入店させてくれ、協力の輪が広がりました。メーデーにも参加し、組合の行事にも必ず参加。人ごみの中で歩く練習にもなり、会議中はおとなしく側で待つ事もできるようになりました。喫茶店や飲食店などにも入店を許してもらい、みんなにかわいがられたジャッキー。
 今年4月7日、1年と42日間預かっていたジャッキーとの別れの朝がやって来ました。犬のお陰で、私たち家族も思いやりの心を教えられました。また次のパピーが6月始めに来る事になっています。ジャッキーのように愛情いっぱい育てていきます。
(豊島)



悩んだ末の3人目
すばらしい「宝」たち

小林サヨ
 昭和43年12月長男誕生。結婚した翌年の寒い冬。夜中授乳のときの寒さ。凍りつき体の真まで冷え込む。子供が泣くと三畳の台所へおんぶして行き背中で眠りついた顔を見てそーっと寝かしつけ、私も布団に入る。6畳と3畳の二間の生活でした。
 長女は3年後誕生。出産を一週間後に控えて主人が仕事を独立すると言い出した、明日から仕事どうするんだろう、不安の毎日。まずは仲間の所へ手伝いに行き、1カ月後にはようやく中古車を買う事が出来た。アパートの大家さんも作業場と駐車場を貸して下さり仕事も少しずつ軌道にのって来ました。
 それから3人目を生むか生まないかで悩んだ事を思い出します。狭いアパートでの子育て。経済的にも不安。しかし、医師から「この子はきっと親孝行の良い子になるよ」、夫も「授かりものだからと励まされ、3人目を生みました。これを機にマイホームを購入。この頃の私は「いつも子供をおんぶして、家業を手伝っている人」。自転車に乗る時も前に長女、背中には次男、長男は後に乗せて。近所では名物。まわりの人は「気をつけてよ」と声を掛けてくれた。
 その後、おっとり型の長男はボーイスカウトに、長女には自信をつけるためにピアノを。ひょうきんで元気な次男。3人ともにソロバン一級をとりました。
 次男は医師の言ったとおり、本当に親考行。まわりのみんなを喜ばせるために生まれてきたような子供です。3人を育てて良かった。その次男もこの3月に結婚しました。人生の節目に生まれた子供たち。3人とも親元から巣立っていきました。
(世田谷)



花と緑の博覧会
苦労の末に学んだこと

畠 英章
 私は、1973年、蔵前にあったディスプレイ業を主とする会社に就職。そして博覧会ブームで湧いていた1990年、大阪「国際花と緑の博覧会」の開催に向けて、私は幾つかのパビリオンの展示部分のデザインと設計監理に関わりました。
 「ディスプレイ」=「展示」という言葉には耳なれない方もおられるかと思いますが、小さなものではサインやショウウィンドウのデザイン及び製作から、大きなものではショッピングセンターやデパート、専門店の商業空間、また科学館、博物館などの文化空間、そして展示会、お祭り、スポーツ行事などのイベント空間まで実に幅広い企画・設計・施工に関わる仕事です。
 通常ならば、建築工事が引き渡された後から工事に入るのですが、博覧会に向けての展示工事では、引渡しの期限が迫ってきて様々な業種が入り乱れ、大変慌ただしい状況となりました。
 現場で設計監理をしたのですが、さながら一夜漬けの試験勉強のごとく土木や建築工事の知識を詰め込みながら対応しなければならない状況となり、いろんな失敗をしてしまいました。展示用の信号ケーブルの埋設管を設置するために、一度整地したところを掘って埋め戻したり、仕上がった建築の壁に展示用の穴を開けたり、図面上には無いはずの水道管を壊して漏水させたり、予期しなかったトラブルを体験しました。
 インフラ工事と展示工事が同時進行するようなハードな状況で、大変苦労したことを今だに思い出します。「展示工事」をスムーズに行なう為には、土木・建築・設備工事すべての「調和」が大切なのだという事を『再認識』させられた貴重な体験でした。
(墨田支部)



親父、ありがとう
苦労の連続の修行も

山口正年
 私は佐賀県馬渡島という小さな島の大工の長男としてうまれました。同級生は中学卒業と同時に島を出るのに、私だけ島に残され、大工の仕事を手伝わされました。小さい時から親の苦労を見て育ち「大工なんか絶対なりたくない」と中学生になった頃から思っていました。
 だが、島では自分の希望とか夢とかは許されるどころか、口にも出せませんので、いやいやながら親父についていくより仕方なく、毎日の仕事が嫌で嫌でたまりませんでした。
 島には昭和38・39年頃なのに、車は1台もなく、港についた木材など肩に担いで登って島だから小高い山まで運ぶのです。
 電気は夜の7時から10時くらいまで、自家発電の電気がつくだけの小島なので、機械道具は何一つなく、鴨居・敷居のミゾ付けまですべて手仕事でした。
 こんな島でこんな仕事をしていても、一生うだつが上がらないと思いながら、2年ちかく我慢しました。というより船賃がないので、逃げ出すことが出来ないのです。
 でも、17歳になった時「もうどうでもいい、どうにでもなれ」という心で家出、本土・福岡で3年間の修業は苦労の連続でした。
 弟子仲間5〜6人といつも競い合い、朝早くから暗くなるまで一生懸命やっていました。負けん気の親の血を引いたのか“腕がよい”と親方に褒められちょっと自慢も出来ました。
 29歳で自分の家が完成。初めて大工をやってよかったと思った時「親父、ありがとう」と心から感謝の念がわいてきたものだった。離れて久しい馬渡島の日々も、今は良き思い出に変わろうとしている。
(江戸川)



重装備の行軍訓練
死ぬ気の頑張りを体験

佐野 茂
 昭和16年5月、静岡の鋳物工場の社長が、技術者を養成するために、静清工業学校の1期生として55人を採用した。私には大東亜戦争が始まった年に入学して、卒業が終戦の年という因縁である。
 通学は汽車電車と乗り継いで蒲原から1時間半。頭は戦闘帽、服は国民服、鞄は「はいのう」足元は脚半に編み上げ靴をはいていた。学校は建築中のため青年学校の講堂を使っての勉強。その床がコンクリートのため寒くて震えた。
 戦時中のため、英語は1年で廃止となったが「ディスイズ ア ボーイ」は初めて覚えた英語で、今でも当時の勉強が役に立っている。体育は、学内では剣道部しかなかった。背が低いので「面」を思いっきり打たれると目が回り頭がズキンとした。機械科のため製図器を購入したが当時は相当高かったので親に大変迷惑をかけた。
 3年生の頃に新校舎に移った。下級生に煙草屋の息子がおり煙草を持ってくるよう指示、煙草をトイレで回しのみ「プカプカ」ふかした。
 勤労動員では木工、鋳物、機械、仕上げ工としてそれぞれ動員された。私は仕上げ部で楽だったが、鋳物工場に行った者は黒鉛と砂で鼻の穴から手筋はいつも黒くなりかわいそうだった。動員中1ケ月ばかり寮で合宿したが、寝食をともにした仲間は今でも仲が良い。寮で食べた芋のつるを粉にしたおしるこは本当においしかった。
 仲間には予科練、戦車兵に志願したものもいた。戦死した仲間もいる。「教練」は配属将校から受け銃剣術、匍匐前進などかなりきつかった。野外演習はあたご山まで約10キロ、三八銃と着剣「はいのう」と重装備の行軍はきびしかった。帰りは銃が肩にめり込んだが、死ぬ気で頑張りました。その後の生き方にこの時代の経験は大きく生きている。
(町田)



私の体験が本に
今は亡きこの子に感謝

蜷川喜美
 26年前、児童教育研究家としてご活躍されていた故、金沢嘉市先生が「子どもの天分を生かすために」と言う本を出版された時、私の体験を載せてくださいました。以下文中から抜粋(省略部分あり)させていただきます。
 【私の家の近くに一人の知能障害児(ダウン症)を持つ家庭の人と結婚した人がいるが、その方は「あの子は言うこともやることも3歳程度の知能しかないと言われていますが、それでもあの子としては精一杯の努力をしています。ごまかしたり、よく思われようともせず、あの子なりに一生懸命やっています」といっていた。そして、「このショールを私に編んでくれました」とみせてくれた。かなりの数日をかけて編んだだろうと思われるその赤いショールには、自分を大事にしてくれる人への深い思いが込められているように思えた。この人は自分の宝物にさわるように手にしながら「私はどこへ行くにもこのショールを身につけていきます。」と話し、そして「障害児を持った家庭では、その子らしい可能性をどのように伸ばしてやったらいいか心を砕いています。それにはこの子たちを特別な子として考えないでもらいたいのです。みんなとおなじ人間として見ていただきたいのです。」と、障害児に対してもっと世間の人々が正しく認識してもらいたいと訴えているようでもあった。】
 金沢嘉市先生の著書の中にこのような形で載せていただきましたが、この子と暮らしたことで自分では気づかなかったことを教えられました。社会生活の中で人との関わりは一番大切に思います。大変なことを乗り越えられたのも家族の思いやりと優しさではなかったかと、今は亡きこの子に感謝しています。
 今教育現場では登校拒否やいじめ、青少年の殺傷事件と心いたむ事件が多すぎます。心を病んでいる健常者。障害を持っている人の多くは正直で素直です。命の尊さをもっと考えられるように、私たちも努力しなければと思います。
(杉並)



持金を聞く外科医
戸惑いと自嘲する母の顔

杉本信義
 私の右膝の上には長さ2センチほどの古傷がある。
 これを見るたびに50余年前のことを思い出す。
 昭和20年5月25日の東京の東京大空襲によって我が家も全焼した。疎開から帰った時には一面焼け野原。杉並の高台から新宿の伊勢丹あたりまで見渡せるほどであった。
 焼けあとの我が家の敷地に畑を作り、茄子、きゅうり、トマトなどを作った。道路と隣家の境には竹で低い垣根を作り所有権を主張した。
 小学校4、5年であったろうか、私たち餓鬼どもは学校が終わればランドセルを放り投げて近くの川や池でザリガニやトンボを捕って遊んだ。
 そんなある日、近所の悪童どもが誘いに来た時、待ってましたと、私は竹の垣根を一気に飛び越えようとジャンプした。しかし、つなぎ目のところに膝の上をぶつけてしまった。ささくれ立った竹はざっくりと私の膝の上部に突き刺さってしまった。
 家から出てきた母が、自分の手に負えないと私を医者に連れて行ってくれた。一駅先の、初めてかかる外科医院だった。
 軍隊帰りと思われる40がらみの医者がいきなり母に言った。「今いくら持ってんの」なにがしと答える母、「そんなんじゃ診られない」という医者。「後でお持ちしますから」という母。そんなやり取りがあって、医者は診察にとりかかった。
 ピンセットで何本かの竹片を抜き、「赤チン」を塗っておしまい。傷の痛みは忘れたが、母の「恥ずかしそうな」「戸惑った自嘲」とも思える複雑な薄ら笑いは、私の脳裏にしっかり刻み込まれた。それから5年余り後、竹が刺さった所がぐちゅぐちゅするので、傷跡周りをさすっていると、1本の竹片が出てきた。
 この出来事がトラウマとなったのか私は今でも医者嫌いだ。抵抗なく医者にかかるようになったのは組合に入って、「支払いの心配」がなくなってからである。
(杉並)



病気で話せない妻
時折り思う話しの数々

小林富也
塗装 小林富也
 昨年、11月22日、4チャンネル(今日は何の日)で平野愛子の事が放送された。この時、アルツハイマーで入所中の妻の事が思い出された。
 妻は娘の頃、牛込薬王寺町に住んでいて、隣が魚屋であった。その魚屋の娘が、朝から晩まで毎日、家事をしながら歌っていた。何と歌の好きな娘だろうと思っていたという。
 「港が見える丘」と言う歌がビクターより売り出され、大人気となった時、その歌手が隣の娘、平野愛子と知ったという。その時以来、家の中で歌う愛子の歌は聴けなくなったと妻は語っていた。
 妻は施設に入っていて、今では会話を交わすことも出来ない状態ですが、折々妻が語っていた事を思い出してしまいます。
 もう1つ忘れられないことは、やはり終戦直後のこと。
 妻は父の一族の経営する工場に住んでいて、近くの奥さんが毎日子どもを背に道端の食べられる草を摘んでいる。
 「何を飼っているんですか」
 「何も飼っていません。主人が展覧会に出品する絵を書いていて収入がないので、私たちが食べるのです。」この話を父に話すと「背中の子にお乳を飲せるために、米を買うようにお金を渡してきなさい」と父は言った。私はその方にお金を渡しました。
 次の日もまた草を摘んでいるので「昨日のお米のお金は」というと「申し訳ありません、絵の具が無くなったので買いました」。
 父にこのことを話すと「何と素晴らしい奥さんだ、山内一豊の奥さんより素晴らしい。ご主人もきっと立派な絵を書くだろうよ」。そして、父の言った通り、絵は特賞入選となり、後には展覧会の審査員に、また美術学校の先生となって生活は安泰したという。苦しい時の奥さんの協力があったればこそですと妻は私に語ってくれた。
 妻はどんなことがあっても苦情を言わず、やさしく助言してくれた。私にとってはかけがえのない妻だ。
(中野)



焼け跡が遊び場
母の手づくりグローブで

中田 実
 私は終戦(1945年)後実施された「6・3制新教育」の中学1年生でした。「6・3制、野球ばかり上手くなり」という名川柳がありました。全くその通りでした。
 野球といっても当時は道具も揃いませんでした。グローブはかあちゃんの手造りで布製。ボールは軟球(健康ボール)でした。
 私の住んでいた所は後楽園スタジアム(現東京ドーム)の近くで、あたりは戦争中の空襲で焼け跡、空き地が多く、そこが少年達の遊び場であり、野球場でもありました。
 後楽園でプロ野球の試合がある時は、係員にねだっての無料見物はたびたびです。
 又、学校帰りに野球をやるのは主に電機学校のグランドでした。
 隣が小石川後楽園(旧水戸藩江戸屋敷跡・通称水戸様)で塀もこわれ、出入りも勝手で、遊び場になっていました。
 水戸様の中は木も多く、遊びも、映画「ターザン」になったつもりの遊びになっていくのです。
 映画もすいぶん観ました。特にアメリカの西部劇が多く変なピストルを腰に下げ面白がっていました。タイロンパワーが主演した「快傑ゾロ」に胸をわくわくさせ、大勢の悪ガキが書いたZの字があちこちについていました。
 その頃、NHKは内幸町にあり、テレビの無い時代、ラヂオは大きな楽しみでした。
 ラヂオの楽しみの1つは公開放送の見学です。往復ハガキで申し込み、友人数人で出かけたものです。「20の扉」「話の泉」「トンチ教室」「のどじまん」「放送演芸会」等々。
 中学生になってもベーゴマとメンコ、カバンの中は野球の道具。
 僕らの頭の中は学校から受けるよりこれらの事からの影響の方が多かったようでした。
 元気に過ごした中学時代を思い出してクスクス笑っています。今は駄目親父から駄目爺を楽しんでいます。
(文京)



懐かしい播磨言葉
「ヤッサ」あやつる太鼓の音

岩武憲生
 日本全国には、様々な祭りがあります。なかでも天下の奇祭と呼ばれ、名のごとく日本一激しく、危険な祭りとされる兵庫県姫路市の「播州姫路・灘のけんか祭り」があります。毎年、締込み姿で地元の人たちと一緒に屋台を担ぐという仲間に誘われ、私はビデオ撮影者として、10月14・15日に行って来ました。
 この姫路市白浜町の「灘のけんか祭り」は、2トン以上のけんらん豪華に飾りたてられたヤッサ(屋台)を、100人近くの締込み姿の若者が担ぎます。
 ヤッサには、赤地に金刺繍の入った半被に、頭巾を冠った太鼓師4人の勇壮な太鼓の音にあわせ『ヨ〜イヤサ〜』と練り合わせをする様子は、壮大そのものです。
 ヤッサは、太鼓の音によって担ぎ手のかけ声、ヤッサの動きも変わります。練り合わせが始まると、太鼓の音が激しさを増し、その場にいると武者震いがしました。
 実は、私は3歳から18歳まで、姫路市豊富町にいました。私の町の祭りは、白浜町より、ひと回り小さな屋台でしたが、小学6年生になると同級生は、太鼓の練習があると言って早退していました。私は、このような経験はなかったのですが、自転車に弟を乗せて祭りに行き、友だちが大きく左右に揺れるヤッサの上で、太鼓を叩いている姿をよく覚えています。
 当時、豊富町にいて白浜町の祭りは、『毎年、怪我人続出の怖い祭り』と聞かされ、見に行った事はありませんでした。
 誘われて行った「播州姫路・灘のけんか祭り」でしたが、長く東京にいて、播州の秋空と、陽射しのなかでの祭りの雰囲気や、久しぶりに聞く『ヤ〜ショエ』『エ〜ンヤ〜』『ヨ〜イヤサ〜』のかけ声、地元の人たちとの会話。
 播磨言葉と遠くに聞こえる太鼓の音が懐かしく、目が少し潤んだ2日間でした。
(多摩稲城)



赤痢にかかって
私5歳、弟3歳で

栗原進一
 昭和12年9月12日、台所の土間で私は土鍋のかかった七輪をウチワで一心にあおいでいる。医者に今日からお粥を食べてよいとの許しがでたのである。
 座敷では、お坊さんがポツンと一人で白いご飯を食べている。私の食事の許しが出た日が弟の葬式の日だったのである。
 今日でも何故か弟の葬式の原景には、坊さんと母の2人しかでてこないのである。父も兄も祖母も他の参列者もいたはずなのに。
 私の故郷は群馬県佐渡郡原村といって利根川ぞいの部落で、当時400戸程の小さな村であった様に記憶している。
 その年、村のあちらこちらで赤痢が流行っており、運悪く私も感染し病の床に付いてしまった。私が5歳、弟が3歳で夏も少し過ぎた頃である。
 弟は急性小児疫痢でわずか2日間で死んでしまった。
 私が赤痢にかかったのは病床へ置いてあった水アメをちょこちょこ失敬したのが感染した原因だったのだろうと、その話しがでる毎に両親は話していた。
 私と弟とは両親からよく比較された。弟の方が社交的で、家に遊びに来る大人達から「ぜにくんない」といって小遣いをせしめていた。弟だけにやるわけにも行かず、私と兄もおすそわけにあずかるのが常であった。
 私「進一」と弟「良雄」と反対になればよかったねと両親が笑いながらよくいったものである。
 その後弟2人、妹3人が生まれ、現在7人は皆元気に過ごしている。
 後年、土鍋のかかった七輪を「坊さんがまんま食べている」といいつつ、ウチワを一心にあおいでいた姿を思い出す度に、食べることへの執念だったのだろうなと。
(北)



「くるものが来た」
指名解雇反対闘争の3年

大瀬秀之
 私は昭和26年、中卒で地元江東区にある従業員80人くらいの甲板補機メーカー(主にタンカー向け)に入社。夜は定時制高校の機械設計課で学びました。
 その頃は造船ブームで会社も460人の従業員を抱えるまでになりました。しかし、1973年11月のオイルショックで手持ちの仕事は1年半分もキャンセルになり、会社は半数の希望退職を提起、未達の人員は指名解雇、2ヶ月で200人の人たちが応募しました。
 1977年12月2日「私のタイムカードがない」会社の掲示板には指名解雇者30人の名前もあり、「とうとう来るものがきた」と作業服に着替へ、ヘルメットをかぶり、就労闘争に入った。全国金属の本部にも連絡をとった。
 当時、私は労働組合の副委員長でした。
 数日後、本部役員も同席して団体交渉を持つことができ、氏名解雇が不当なものであること、労働組合の同意を無視したものは無効である。まして、解雇通知を一通の内容証明と1枚のハガキに「都合により解雇」と書き、朝の8時に配達。玄関前で高校1年の長女が受け取り中二の次女が「こんな早い時間に郵便物がなぜ来るの」と聞き、友達も迎えに来ていて「大瀬さんのお父さん、首を切られたの」と世間のさらし者にした行為は人間のやることではない。と訴え、解雇理由を明らかにしろ、と詰め寄るが、理由が明示されないまま終わった。
 半年後工場閉鎖、全員解雇。地裁と労働委員会に提訴、そして東京争議団に加盟しました。親会社の丸紅には週1回のビラ入れもした。専従班は3人。25人は東京土建の組合員から土工などのアルバイトを紹介してもらいながら争議を続けました。
 約2年がたち、裁判もはじまり、親会社との交渉ももつことができ、1980年には地裁で和解の話が進み、12月に解決しました。
(江東)



悪徳不動産に騙され
禍転じて福とする努力

広沢武夫
 東京オリンピックの頃、休日もほとんど取らずに、一生懸命働いた。
 世帯を持って5年目。長女の新入学までには、何とか定着できるマイホームが欲しかったからである。
 ようやく、頭金くらいの余裕が出来たところで、うまい話にとびつき、いわゆる悪徳不動産屋に騙されてしまった。
 何とか取り戻さねばと、大切な仕事も犠牲にして、都庁やら不動産業協会やらと、こまめに足を運んだ。お陰で、全額取り戻せたのは、何より嬉しい事でした。『人を騙すと言う事は、もちろんいけない事だが、騙された側にも、落ち度があるんだヨ』と先輩に諭された。
 それから、不動産の取引に関する事や、関連する法律について、余りにも無知だった自分に気づいて猛勉強を始めた。ときには夜12時過ぎまで勉強することもあった。勉強のついでにと、不動産取引主任者の試験にも挑戦、運良く一発合格となった。
 頭のトレーニングになると思い、調理師試験に挑戦し、なんとこれも合格できた。
 ちょうどその頃、東京土建の組合にも加入した。早速、1級技能士や職業訓練指導者やら、各種の資格取得に挑戦し、おかげさまで、全部取得出来ました。
 “禍転じて福となす”という諺どおりに、学習と知識の大切さという事を、身をもって経験しました。
 そういう経験を経て、現在、進んで学習制度化委員として微力を尽くしている次第です。
(板橋)



90歳で聖者の行進
「サッチモ祭」はまだかい

大野 守
 「守、ジャズはまだやらないのかい」と何かあると聞いてきた。「親父、サッチモ祭は年に1度で夏にやるの」と私は何度も答えた。
 それは6年前の夏、母が亡くなり、寂しがっていた父をはじめて大丸百貨店の屋上ビアガーデンでおこなわれたニューオーリンズジャズ祭(通称サッチモ祭)に連れていったのが始まりだった。
 サッチモ祭は昼の1時頃から、夜の8時までプロやアマを含めた20ちかくのデキシーランドジャズバンドが参加のジャズフェスティバル。私は10年くらい前から毎年参加している。(サッチモ祭はジャズの神様といわれた名トランペッターのルイアームストロングの愛称)
 休憩時間には、デキシーセインツのリーダー、外山喜雄さんが呼びかけとなってニューオーリンズの子どもたちに楽器を贈るカンパをしている。そのカンパ方法は参加したバンドを先頭に、聖者の行進を演奏しながら会場を回り、その後ろを飾りのついた傘を振り回しながら有志がカンパを集めるというものだ。ニューオリンズでは、お葬式でおこなわれ、セカンドラインという。
 父は最初パレードを見ているだけだったが、ビールの酔いが廻ったころには傘を持ってセカンドラインに加わり会場を行進した。90歳近くになった年寄りがフラフラと「聖者の行進」をするので会場から父へ拍手喝采となった。
 目立ちたがり屋だった父。大野盛太郎は去年の3月、94歳で亡くなった。最後のサッチモ祭は前年の浦安のホテルでひらかれたクリスマスパーティだった。
 今年のサッチモ祭は7月20日に恵比寿麦酒記念館で盛大におこなわれた。セカンドラインに参加したのは父のひ孫2歳になる「ちひろ」だった。父も喜んでいることだろう。
(新宿)



3人目出産の日に
「自分の子だから連れて帰る」

江澤とり
 昭和40年7月30日午後のことです。「江沢さんお話が」といつもにこやかな院長先生が真剣な顔で私の病室に入って来られました。院長先生と言っても小さな個人の産院、もちろん先生と名の付くのは1人、奥さんが看護婦さんです。
 「しっかり落ち着いて聞いて下さいね、実は赤ちゃんなんですが…」本当に言いにくそうな口ぶりに部屋いっぱいに緊張感が漂うとはこのことかも知れません。
 その朝午前8時過ぎ、私は3人目の子供を出産したのです。主人は陣痛が始まると上の子達を連れて自分の実家にあずけに行き、そのまま仕事に出てしまいました。そのため生まれた赤ちゃんの顔はまだ見ていないのです。
 「どうしますか」
 先生の異常な言葉に思わず、「何か有ったんですか」「実はお子さんは一生歩くことが出来ないと思うのですが」「足は有るにはあるのですが」と口ごもる。
 「ともかくみせて下さい」
 奥さんに抱えられた真っ赤な子供はいい顔をしてるじゃないですか。母と子の初対面です。
 生れた子は、両手の2本の指(人差し指と中指)が手のひらに食い込むように曲がっています。足は両方とも形こそ有れ、甲がすねにくっつくように上を向いていたのです。
 「自分の子だから連れて帰ります」それだけを言ったのをよく覚えています。
 それから数時間後、私は、先生の目を盗んで子供を連れて産院を抜け出してタクシーを拾い、家へ帰ってしまいました。先生や奥さんも大騒ぎをしたようですが。
 あの時の「どうしますか」は、なんだったのか……。
 その子も度重なる手術の結果、普通に歩けるようになり、今では2児の父親になり親子4人で楽しい家庭を築いています。
(世田谷)



不屈の活動家
「青村さん」お疲れさん

高野良夫
 青村雪夫さんが東京土建文京支部元書記長を退職(1998年)された以後、数年前から体調を崩された事を知ってはおりましたが、現在の高齢化社会の中、75歳で急逝された事は残念でなりません。
 私は40数年前に豊島支部に加入し、東京土建本部方針の組織再編成の流れの中で文京支部に転籍しました。数年後に支部長(現在の執行委員長)に推薦されて6年間にわたり任務を遂行しました。その間、理論家であり、活動家でもあった青村さんから、支部代表者としての責任と任務について、指導して頂きました。革新的思想家であり時には厳しく、時には優しい両面性を持ち、なおかつユーモラスな側面をもった青村さんの人間性に接した感触は今だに忘れ得ません。
 その中で1974年の参議院選挙で選挙違反を口実に駒込警察署が、文京支部を急襲し、不当弾圧をした事です。7月8日早朝、数十名の警官が組合事務所を包囲する中で、組合事務所を駒込警察署員が強制家宅捜査をし、それと同時に練馬の自宅で青村さんを逮捕し、組合事務所に出勤して来た永田さん(当時書記次長)を令状無しで逮捕拘留しました。
 この緊急非常事態に対し、東京土建本・支部、国民救援会、区労協、民商等の友誼団体で弾圧対策連絡会議を結成し、早速、東京地検、駒込警察署に(不当逮捕反対、即時釈放)抗議行動を連日起こし、逮捕されてから6日目の7月13日、午後3時頃青村さんが釈放され、続いて3時30分頃永田さんが釈放されたので即刻釈放報告会を支部事務所2階で開き、2人の心身共に健全を確認し、激励して今後の行動を意志統一しました。
 その後数ヶ月で不起訴要求が勝利しました。不当弾圧にもめげずに敵の権力に堂々と身分を張っての、青村さん、永田さんの不屈の行為は私の70有余年の人生の中で大いなる教訓となりました。忘れえぬことです。
(文京)



自分を無にする
円覚寺座禅で大人に

神田和歌子
 私は32年前、従姉妹に誘われて鎌倉の円覚寺(臨済宗円覚寺派総本山)に坐禅の講習会に参加しました。そこで初めて朝比奈宗源住職に御会い出来た事が、私の忘れえぬ人です。
 まだ若かったので初めての事に対し面食らう事ばかりでした。朝の作務(さむ)から食事の作法、トイレの使い方、入浴の仕方まで1日中覚えなければいけない事ばかりで3泊4日は、あっという間に過ぎましたが、今だに、あの時の事は、覚えていますし、いざと言う時に役に立っています。
 1番辛かったのは坐禅でした。朝、静寂の中で組むのは辛かったけど清清しく自分を無にする事がいかに大切かをここで教わりました。そしてお寺の修業僧が大変な事も、しみじみ分かりました。
 あの時、朝比奈住職が、何を言われたか、ちょっと忘れましたが、住職が部屋に入って来た時の空気は忘れられません。部屋がシーンとして人に対してこれほど、おごそかと言うか、うやまうと言うか、緊張感が部屋中に漂よいました。
 若い時のあの時を思い出すと、なつかしさと、私に仏教へのおもしろさを教えて下さった朝比奈住職との出合いは私を1歩大人にしてくれました。皆さん、円覚寺の中に舎利殿がありますが、お寿しの“シャリ”は、ここから来ているそうです。
 住職は、今は亡くなられましたが、字はテレビの中で生きています。水戸黄門、大岡越前の題字を書かれたのは、朝比奈宗源住職です。
 今でも時々、迷いがある時、坐禅を組み、自分を無にする事を心掛けています。
(西多摩)



平和の尊さを
甦みがえる二人の先生

岩武佐代子
 私の心の中に、平和の尊さを教えて下さった二人の先生がいる。二人とも子どもが、小・中学校の頃、関わった方々である。
 一人目は長女が中学の頃、1学年上のクラス担任だった10年以上も前の話で、日本は平和な時代であり、そんな時に平和を訴える先生は、父兄から変人に思われた節もあった。私もその一人で大切なことは解っていたが、正直なところあまりピンとこなかったのは確かだった。
 修学旅行は広島へ。卒業式にも平和をアピールし、グリーンのちょっとくたびれたスーツを着用して生徒たちを見送っていた。
 その先生が、5年前に亡くなられた。お別れ会では、卒業生代表が遺影の前で「先生は、いつも私たちに平和の尊さを教えて下さりとても感謝しています」と述べていた姿が今でも目に浮かぶ。
 もう一人の先生は、次女が小学5・6年の担任で、次女たちのクラスを送り出し転任されてしまった。
 それから1〜2年後、京王永山駅前で平和宣言のビラ配りがあり、出かけた時のことだった。ハンドマイクを片手に切々と平和を訴える教職員組合の方がいた。それがその先生との再会であった。
 先生は「みなさんの大事なお子さんや家族の方が戦争に巻き込まれることのないように。また私の教え子たちが戦争に駆り出されることのないように、みなさんとともに平和な世の中を守っていきましょう」と訴えていた。
 今国会では、小泉内閣が会期を延長して、有事法案を可決しようとしている。
 数年前の二人の先生方の姿が甦ってきた。数多くの教え子たちもどこかで、両先生の熱き教えを思い出していることであろう。是非そうであってほしい。
(多摩・稲城)



親方の一言から
青年部長から分会長に

可兒美憲
 近所の電気工事店に勤め1年程たった1985年(昭和60年)、24歳の時、親方に勧められ組合に加入した。加入当時組合活動には、ほとんど参加しなかった。
 そんなある日親方から「組合には青年部があって、色々な職種の同世代の職人が集まって来ている。一度顔を出してみたら。」と一言。早速支部青年部に行くと、うさん臭い男達が数人で会議をしていた。当時の部長の利根川さんは「青年部長になると結婚出来る。歴代の部長は皆そうだった。」と言っていたが、女性組合員は見当たらなかった。
 それでもセッセと顔を出した甲斐があって、彼女は出来たのだが、青年部員の行事への参加者は少なかった。支部や先輩からは叱咤激励を貰うがうまく行かなかった。青年部主催のスキーはよく行ったが、いつも、人数集めに苦労した。
 それでも城北ブロック・区職労組・他団体交流などで、色々な人と知り合うことができた。
 本部青年部30周年(チャレンジ3000)では、当時16分会全部に顔を出し、青年組合員の参加をお願いに回ったことも。支部青年部長を2年やったが、忙しく動き回り、青年部時代の10年、自分なりに一生懸命だった。
 そして今、41歳。練馬支部26分会中最大の分会、大泉東分会の分会長になった。分会に顔を出して7年目。諸先輩方を差し置いて、教宣部長から一気に421名の代表に。それも、勤め先の親方を始め、分会役員・主婦の会・分会の組合員全員の支えがあって出来る事である。
 青年部時代から幾つもの出会いがあり、皆で理解し合い協力し、行動してきた事は、今も昔も変わらない。
 「皆で話し合い皆で決め、皆で行動する事」を忘れずに、これからも頑張って行きたいと思います。
(練馬)



残業徹夜の3ヶ月
修行のためと世話役に

早川 隆
 何十年も昔「忘却とは忘れ去る事なり」という言葉が、ラジオドラマ番組で流行した時代がありましたが、今の世の中は政治も経済も、我々の仕事の内容までも嫌な事ばかりで「忘れ去りたいことばかり」である。
 私が25歳の頃、日光街道と明治通りを結ぶ、千住間道の中ほどに、大映社長永田雅一の発想で「東京スタジアム野球場」が作られた。竹中工務店が施工した。
 この現場のタイル工事を請けた親方が「早川、お前の家のすぐ近くの現場だから、修業のため世話役になって、やってみないか」といわれた。その頃はバイクや自転車で現場に通っていた時代だから、この現場で「車1台買うくらい儲かるぞ」とおだてられ、工事に掛かりました。
 工事は超突貫工事で、下地を塗る左官も常時200人くらい働いていた。下地ができるまでは常時7〜8人の職人を詰め所に手間賃付きで待機させ、タイル下地ができると「ソレッ」てな具合に仕事場に向う。3ヶ月間は残業・徹夜の連続でした。
 夜食代や飲み代などもかさみ、最後のほうでは「早川に払う手間は無いよ」と言われたくらい、結果は車一台買う分の経費が持ち出しになってしまいました。
 この仕事でケツを割らずに済んだのは、弟と気心の知れた3〜4人の仲間の協力があったからだと思うし、現場ではいつも気を締めて掛からなければいけないことを経験した。あの頃の経験が、厳しいときにも我慢できるようになったと思います。
 100年はもつと作られたスタジアムも、大映映画の衰退と共に、10年くらいで解体され、今は荒川区の体育館とか警察署、都営住宅になってしまいました。
(荒川)



運転手の心に涙
気持ちが解り合える世に

鈴木清江
 今から41年前のことです。今、住んでいる貫井から板橋の日大病院まで、私たち親子4人を、タクシーの運転手さんが、タダ(無料)で車に乗せてくれたのです。
 当時夫は結核を病い、清瀬の国立結核療養所に入院していたのです。たまに上の子2人を連れて見舞いに行きました。知らぬ間に夫の病気が子どもたちに感染していたので、月2回日大病院に治療に通っていたのです。
 富士街道に日大病院行きのバス停があり、今でこそ舗装された道で15分も歩けば着きますが、当時は砂利道で、でこぼこの酷い道で30分もかかります。
 生まれて3カ月の次女を背負って、よたよた歩く3歳の長女の手を握り、長男は5歳でしたので先に1人で歩いています。私達親子の姿を見たのか、後ろから来たタクシーが急に停りました。ドアが開いて「乗りなさい」と運転手さんが声をかけてくれたのです。お金が大変なので「いいです」と断ると「道が悪くて大変だから、いいから乗りなさい」といって下さったので有難く乗せていただいたのです。
 「どこへ行くの」。運転手さんの声に、おもわず「板橋の日大病院です」と声を出しました。運転手さんは黙って日大病院まで行って下さったのです。
 本当に嬉しくって涙がでました。当時の感謝の気持は今でも忘れられないのです。
 今の時代ちょっと人に注意をしても反対に怒られたり、親が子供を子が親を殺したり、人間の心も気持も荒んでいます。人の気持ちの解かる心暖かい人間になれる社会にしていかなければと強く感じています。
(練馬)



有事法制を阻止して今年を忘れえぬ年に
本田幸一
 私が土建に加入したのは20数年前、独立と同時でした。勧めてくれたのは当時の支部副委員長、団地のある七砂分会に所属しました。1年後、推されて群長を引き受けたものの、分会執行委員会に出ても何を話しているのか分らない。そんな私を周囲の方々がそれは親身に教えてくれました。今日の私があるのは良い先輩がいたからこそ、です。
 春・秋の組織拡大でもよく連れ立って歩きましたが、何も話ができずに帰る日々。今は情勢や仕事のことを大勢の仲間と話せるようになり、どうやら皆さんの仲間入りができたようです。
 今後は支部・本部役員として、また1からやり直そうと思います。不安はあります。が、組織増勢と組合員の要求実現に向け全力を尽くしたいと心を新たにしています。
 さて、21世紀。小泉総理の進める構造改革、特に有事法制を何としても阻止しなければなりません。私たちの年代の者にはともかく、若い方々にはどんなひどく、怖い法案なのか分からない方が多いのではないでしょうか。政府もマスコミも、中身の話や説明もなしに危険極まりない法律を通そうというのですから、許すわけにはいきません。
 私たちの運動で1日も早い解散に追い込む。今がその時だと思います。分会、支部、そして書記の皆さん、力を貸して支えてください。
 忘れえぬこと──思い出話ばかりではなく、もしかしたらこの1年が、そんな年になるのかもしれません。
(江東)



組合の初歩教わる
面倒を見てくれた篠沢さん

西野 弘
 私が組合に加入したのが1975年7月で、支部創立2年目ということもあり、群と分会の整備も途中だったのか、秋の拡大のあと群長となり翌年の新体制では分会の責任者として1年間担当し、支部の税対担当になったのが組合加入から3年後でした。
 当時の本部税対部長は柴田さんで、担当中執に故人となられましたが、八王子の篠沢委員長がおられました。
 私が所属する日野支部が八王子から独立したということもあってか特別に面倒をみてもらったと記憶しています。定例部会での昼時などには組合活動の初歩から、専門部の責任者としての心構えなどやさしく教えてもらいました。
 部会の帰りは、同じ路線で一緒ということもあって、途中で寄道をすることも幾度となくあり、その都度、戦争体験の話だったり、シベリアでの抑留生活の話しなど興味深く聞いたことを思いだします。話し口調もお酒がすすむにつれ、身振り手振りも加わり微に入り細にわたっての話し振りは、時を超えて鮮明に思いだされます。
 あれから20年余経過したいま、多摩南ブロック選出の本部役員の交代により、前土方本部税対部長の後任として、ブロック推薦をうけ、常任中央執行委員を拝名することになりました。
 第55回大会を経て、新役員体制のなかで、はからずも担当部署が篠沢先輩から組合活動の手解きを受けた税対部長。前任者が所属支部の委員長ということで因縁めいたものを感じています。
(日野)



仲間ができて幸せ
子どものため健保に加入

森 健造
 私と東京土建との出会いは、1954年(昭和29年)。当時、高田馬場に住んでいて、板金屋として独立したばかりだった。手間取りと自分仕事が半々くらいの頃でした。
 近所で工務店をしていた大工の親方からも仕事を頼まれ、出入りするうちに、その親方が組合の役員をしていたので東京土建のことを知ったのです。
 そのうちにその親方から加入を勧められた。若かったし、健康には自信もあったが、小さい子供がいたので健康保険がほしくて組合へ加入したようなもの。その頃の組合は、今のように集まりも無く、毎月分会長さんの所へ組合費・保険料を届けに行っていた。いま思うと車庫代でも届に行くような感覚でした。
 1968年。東京土建は組織再編の方針を打ち出し、組合員の住んでいるところの支部、分会に移動することになり、中野支部から板橋支部向原分会へ移りました。
 初めての集まりで話し合ったら、みんな近所の人たちで、やっと仲間の顔が見える所に来たと思いました。それまでは組合に加入して10年以上になるが、すべてひとまかせだったので組合の内容が十分に理解していなかったのです。向原分会の集まりは、近所の仲間の家ということもあり、出席して質問などをしていたら、いつの間にか群長を引き受ける羽目になりました。
 振り返ると、これまで幾つもの出会いと、そして別れもありました。「一言で言えば、多くの人たちと知り合えたことが本当に幸せだった」と痛切に感じている。
 これからも人の和を大切に、自分なりに頑張っていきたい。
(板橋)



皆に好かれること
恩師の教えを大切に

本間忠男
 今から35年ほど前に東京オリンピックがアジアで初めておこわれた。その頃、私は5年生。寒い体育館で「円谷頑張れ」の声援を全校生徒300人でおくっていた。レース終了後先生がお話の終りにこんな事を言っていた。「みんなに好かれることをおこなえば、自分もみんなに好かれる」と、簡単なことだがむずかしいから努力するようにと教えられた。
 バシバシと頭をスリッパで叩く先生も恩師は恩師、同級生と同様まだまだ付き合は終っていない。
 中学卒業とともに「金の玉子たち」の名を付けられ、恩師の教えを頭に叩き込み集団就職をし職人の小僧となった。
 7年程して知ったグループ活動「大森緑の会」がそれからの私を大きく変えることになった。雑誌「人生手帖」が母体となって全国的青少年サークル活動を推進してグループに加入した。「根っ子の会」に続く大きな規模の組織であった。
 時間のたつのも忘れてカリカリと鉄筆を動かし、インクをつけローラーをころがして、ワラ版紙を1枚づつめくって会の機関紙を作っていた。きたない狭い暗いアパートでナベを器にしたラーメンを食べながら、仲間達のサークル活動大好きにどっぷりとはまっていた。私も機関紙づくりが好きだったのだろう。何年かして東京土建の組合を知ることになり、またしても好きの延長で現在は教宣部の担当をおこなっている。
 弱い1人ひとりの力と要求を、少しでも多く期待にこたえてもらえるように今後とも、みんなに好かれる組合運動をおこなって行きたいと思う。
(大田)



刈谷さんの心継ぐ
今でも分会の宝物です

塚橋誠二
 1994年8月。青年部を再建して部長になり、その時からお世話になり、数年後なくなられた刈谷貞男さんとの思い出を書きます。
 刈谷さんは、支部教宣部長・組織部長・豊島原水協幹事など務めました。青年部長として初めてしゃべった時、回りをじゃがいも畑だと思ってしゃべればいいとか、男はいいから、女性にはやさしくしたほうがいいといわれました。
 群は1つの家族、そして分会は中ぐらいの家族、支部はそれをまとめた大きな家族だから、群長は、群の人のめんどうを少しみてやれば、うまくいくとか、今でもいろいろ忘れえぬことばかりが出てきます。
 本部大会や、他の会議では、初めての自分に、やさしく教えてもらいほんとうにうれしかったです。
 本部青年部40周年を期に支部青年部長やめ、分会にはいり、副分会長になりました。1年しないうちの春一番拡大で加入があり、ピザをごちそうしてくれ、ほんとうによかったと言いながら食べたその3日後、急になくなられたと留守電があり、「うそだ」と思いながら家に行き、本当だとわかりショックでした。
 その後、刈谷さんの家にあった物で必要な物を、分会センターに運び、今でも分会の宝物です。そして1年後、常任になり刈谷さんと同じ教宣部と、豊島原水協幹事をやってます。まだまだうまくいきませんががんばろうと思います。
 今でもあの時のこと思い、拡大で加入者があったとき、またうまくいかない時、他に何かあるとき、ピザを食べることを、分会のきまりごとにしてます。
(豊島)



3mもの豪雪を体験
助け合う大切さ重要に

吉田 司
 今から30数年前、私は北陸富山(妻の実家)に住んでいました。私が富山で生活し始めた年、北陸は10数年ぶりの豪雪でした。私は生まれも育ちも九州長崎です。雪国のことはニュース等で知っていましたが、はじめて体験したのです。特におどろいたのは屋根の雪おろしのことです。その理由を聞いたら家がつぶれないためとの事でした。毎日毎日ふり続きます。ひと晩で1メートル以上積りました。積った雪の表面は、綿(わた)のようですが、前に降った下の雪は氷と同じで屋根全面に何重も氷を乗せているようです。
 私も手伝いましたがなかなか大変です。足腰に力を入れ自分が滑らないように作業する重労働です。道路両側で降すのでたちまち3メートル以上の積雪になります。2階建の家は1階が雪でうまってしまい、出入は2階から。商店は、雪の階段を作り出入りするので道幅は半分になります。通行人は滑らないように互にゆずり合うため、買物にも時間がかかります。
 東京での積雪は、きたない物をかくし、白一色できれいに見えるのですが、雪国ではそんな雰囲気ではないのです。又雪が降らないと夏には水不足とがい虫の発生で農産物に影響します。積雪の量でその年の農作物をうらなう事が出来ると農家の人は言っています。
 私達の活動も実際の体験により、その内容を良く見て知ることが大切。組織の仲間一人ひとり東京土建の組織の内容を把握し行動することで、本人と家族の生活と暮しを守ると同時に仲間の助け合いが出来ることだと思います。
 私の1回だけの体験ですが忘れることはないでしょう。
(府中国立)



湧きあがる感動が
同じ苦しみもつ仲間たち

荒井春男
 東京土建結成55周年にあたり、職人生活の今昔の違いをあらためて思います。
 私が東京土建に加入したのは、1952年4月、渋谷公会堂で開催された健康保険適用獲得期成同盟の結成大会直前でした。そして、この大会に参加して、同じ苦しみをもち同じ要求をもつ仲間たちが、こんなに大勢いたんだという思いで、体内から力が湧いてくるような感動を覚え、以来組合運動に積極的に参加するようになりました。
 当時、私には1歳になる長男がいました。この長男が生まれて6ヶ月位たったあるとき急に呼吸困難となり急ぎ立川の総合病院にかけ込み喉を手術することになりました。
 気管にポリープがあり、それが肥大して気管をふさぎ呼吸ができない状態のため、とりあえずポリープの下に穴をあけ酸素をおくりこむという手術でした。以来、約3ヶ月の入院治療をうけることになりました。
 幼な児のいたいけな闘病生活、それに付き添う若い女房を少しでも力つけようと、懸命に働きましたが当時の大工の手間賃は350円程度、10日目、10日目に手渡される病院の請求額を満すことはできません。
 同じ労働者でありながら、健康保険を持つ者と持たないものの違い。何の保障もない建築職人のみじめさと、世の中の矛盾を痛い程感じさせられました。
 そんな時、東京土建という組合で職人の健康保険をつくろうという動きがあると聞き、尋ね尋ねて東京土建に加入しました。そして、メーデー事件で組合が大打撃をうけるなか、健康保険獲得の運動に参加していった記憶が昨日のことのように思い出されます。
(元本部書記長建設政策研究所 副理事長)



生協で「家庭班」づくり
写真バラまき奥さん募集

老田靖雄
 東京土建の書記になる前の1966年9月まで、3年10ヶ月、北区の「労働者クラブ生協」の仕事をしていました。「労働者クラブ」とは、国民生活がまだ終戦の混乱が抜け出さない48年に全国各地でつくられたが、東京北区王子のクラブ生協は唯一、長く存続した生活協同組合でした。「20歳までが少年期」というなら多感な10代後半に学資欠乏を稼ぐためバイトのつもりで入職したが、直後から家庭班の組織(土建流でいうなら主婦の会)づくりに回わされ、毎日、味噌、醤油、落し紙など軽三輪に積んで「生協の品物は良質で安いよ」と回わっていました。
 地域の家庭を1軒1軒「生協に加入しませんか」と訪問し、奥さん、おバアちゃんを説得して歩き回ました。
 未加入者を説得し拡大する東京土建の拡大運動のノウハウはこの時、身についたのだろうと思う。21歳の多感な青年のとき「アンタ嫁さんもらいなさいよ」と見合をすすめられ、志茂班のおばさんは私の顔写真を地域に配り「クラブに好青年がいるよ、嫁さんになりたい人は私に連絡して」と添え書きをつけていたが、しかし反能はなかったです。
 家庭班づくりは夜遅くまでおこなうことが多く、おかげでオルグの夜はほとんど、班長さんやオルグ先の家で晩メシにありつけ、薄給をおぎなうことが出来た。
 見合い写真とは別の女が今の内将さんだが、土建に移る理由に「クラブのように毎晩遅くならないならいい」という条件をつけられたが、土建の方が毎晩帰宅が遅いことに、今でも内将さんは愚痴をいってるところです。
(全建総連)



道に行く人なしや
半世紀ぶりに尋ねて

広田隆雄
 昭和28年夏、私は北海道日高新冠より20キロ程上流、滑若(なめわか)の道路工事の飯場にいた。40人程で私の役は「帳場」。
 その内こんぶ採りが終って、ずぶの素人が3人きた。それなりに仲好くやっていた。私は帳場役のかたわら大工仕事も担当した。構成人員の多数派は積丹半島、美国の漁師で冬の漁期まで出稼ぎで、お盆も帰省せずに働いた。後に入ってきた内の1人は元菓子職人で、脚に障害があったがお盆のお汁粉用のだんご作りでは、のべ具合、切り方のみごとさには「さすが」と皆んな感心していた。
 9月のある朝、村の有力製材所から責任者の呼出しがあり、私が出向いた。庭先に「ダッジ」が停っていて、座敷に5、6人がテーブルを囲んで待っていた。「函館の警察だが身分は」と数枚の写真についてきかれた。そのなかの人は何をしたのか、との問いには一切答えなかった。「それでは案内を」と飯場へ着いたら、丁度一服のときで飯場の周りで休んでいた。警察はすばやく出口を固め1人だけ事務所へ入り本人を呼んだ。「函館の警察だけどわかってるだろう」…時間が一瞬止ったと思ったら、『ハイわかりました』と一言。仕度をし、やがて元菓子職人は車上の人となって連行された。飯場の人々は何も知らされず、呆然と見送っていた。
 翌々日便で配達された新聞で、函館のパン屋殺人主犯逮捕の記事があった。若い時の体験の中でも忘れ難い1つである。冠川の沢はいくつかの思出があり、この六月に半世紀ぶりに尋ねた。
 立派な道と立派な橋が目立つ、人影はなかった。「この道に行く人なしや」の句を思い出した。
(東村山支部)



昔の職人の心意気
いまは物置きの片隅に

関根和夫
 拡大行動の分会センターで、行動に出かけた仲間の戻ってくる間、仕事談議となりました。鉋も鋸も替刃の時代、砥石なんかはもう現場では見られないと云う。おのずと昔の職人の心意気が話される。
 そんな職人の世界の話しを聞いているうち、ふと職人であった父の姿を思い起こしました。5年前、91歳で他界した父でしたが、戦後ずっと合羽橋で洋家具職人として、70歳になるまで働き続けていました。
 浅草育ちの父は、桐箪笥づくりをしていた祖父のもとで、幼い頃から、大人に混じって箪笥の仕事を教え込まれたという。私が生まれた頃は足立で箪笥職人として仕事場を持っていたが、昭和20年4月、空襲で家ごと焼かれてしまった。戦後、近くの木工所で働きながら、貸家の2階で、夜中遅くまで木工の内職をしていたことを私の幼い記憶に残っています。その後、洋家具の仕事にありつけて職人をつづけてきました。家族6人を養ってきた父の苦労は節くれだった指が物語っています。
 明治生まれで頑固さも多々見られたが、震災、戦争の悲惨さも体験し、人の大切さを体で覚えているせいか、子どもたちに手を振ることはなかった。若い頃は芝居通いも随分していたらしく、「白波五人男」や歌舞伎の声色を晩酌の焼酎を飲みながら、語ってくれたものでした。
 母が亡くなってからは、私たち家族との生活になりました。そのとき父が家財と一緒に持ってきたのが、職人時代に使っていた道具でした。当初は油も引いてあったが、いまは物置の片隅に箱に入ったままで、残念ながら真っ赤に錆だらけとなっています。
 人生の大半を道具とともに暮してきたのに、我が家に来てから、父が道具を手にしたことはなく、仕事の話しもしなかった。まるで厳しかった仕事を忘れようとしているように、私には思えました。
(東京社保協)



生き方を考えた
青年部活動者会議で

金丸秀義さん
 昭和31年2月山梨県は白根より江戸川区船堀の、米倉製作所に住込の木工見習として上京。
 昭和37年2月に東京土建江戸川支部に組合加入、同年7月、仕事中に左手の平を手ノミで5針ぬう切傷事故で、組合に行き、手続きをしてもらいました。当時は日雇健保で、休業見舞金の給付をうけました。これがきっかけで組合に出るようになり、青年部の活動を通じて、昭和38年3月青年部長、同4月より江戸川支部執行委員となった。
 昭和38年熱海で開催された、本部青年部活動者会議に出席したのです。
 当日早目に宿に到着し、1人の参加者がいたので、江戸川支部青年部からきたことをつたえると、「そのうち皆さんもきますので少しお待ち下さい」といわれましたのですが、ずいぶんひねた青年部員だと思っていたら、会議が始まってあいさつに立ったその人は門田書記長でした。
 当時の本部青年部長は矢部正さん、書記長は酒場玄進さん、副部長伊藤誠二さん教宣部長の戸辺隊一郎さんを始め、広井さん、小西さん、水野さん、斉藤さん、安田さん、塚本さん、大川さん、君崎さん等々、次代をになう面々でした。
 月1度の青年部執行委員会は芝白金三光町の本部会館で開催され、会議が終ると駅で一パイやり、矢部さんを残し、タクシーで荒川の酒場さんをおろし、足立で斉藤さんをおろし、江戸川に帰るころには1時か2時頃でした。
 その頃の青年部の活動は賃金引上げのステッカー貼りや、「3万から5万へ」の幻灯を持って群や分会に入り毎日のように、江戸川区内を回っていました。組合に加入して早や40年近くになり、改めてふり返って見るとなつかしい思い出ばかりです。
(葛飾支部)



軍隊は「運隊」とも
新兵は全員帰らぬ人に

伊藤午郎
 戦前は男に生まれ、満21歳になると徴兵検査が待っている。地方では軍事務所というところで受けたものです。私は昭和13年に徴兵検査を受けたが、甲・乙・丙のうち甲種合格となり、当時としては「これぞ男子の本分なり」と喜びました。
 国は検査が終わったあと、合格したものを集めて「外地へ行きたい者はいないか」と言った、私は手を上げて「関東軍に入りたい」申しでました。願いがかなって入隊が決ったのです。
 昭和13年3月、東京駅前に集合し特別列車で一路広島へ向った。ここでは再検査があり、合格した者に軍服が渡された。いよいよ宇品港より船で朝鮮の羅津港に渡り、さらに軍用列車で中国牡丹江省羅南という駅に着き、ここから徒歩で野戦重砲隊に入隊となりました。
 6月に第1期検閲があり、ここで上等兵候補者が決るのでみんな真剣でした。私も合格しました。その頃ノモンハン事変がぼっ発して我が部隊にも出動命令が下り、参戦することになったのです。
 ところが私は急に痔の病気が出て、入院、手術となり前線に行くことはできませんでした。ところが軍隊というところは“運隊”とも言うところで、いけなくて良かったと後で思ったものです。部隊は陣地を移動したりしましたが、「ヤレヤレ現役兵も3年で終わりか」。ここで除隊できると思っていたら、1941年(昭和16年)12月8日に日本は米英に宣戦布告し、1年延期されてしまいました。
 その間入隊した新兵さんはサイパン島の部隊に、そして全員が帰らぬひととなりました。
(中野支部)