田甫から古代の大木
考古学より現金収入に

小林富也
 小学校2年生の時、私の住む部落と隣の部落にある中間の道に接した田圃の泥の下から古代の大木が出て、町の材木屋に運ぶ作業中というので見に行った。直径1メートル、長さ5メートル位の泥だらけの大木は路上にあり、三脚を使ってトラックに積み込む作業中であり、田圃に穴埋めと積み込み作業で15〜16人くらいの部落の男たちが働いていた。荷台からはみ出した大木をロープでしっかり止めて、トラックは走り去った。
 田圃の持ち主は穴埋めで、田圃が低くなって大喜びだった。このあたりの田圃は雨水だけが頼りで田圃を掘り下げる事が流行していたが誰でも出来ることではなかった。
 この事が考古学者や古代を知ろうとする人たちの耳に入れば大木は絶好の研究材料だったのだろうが、片田舎の出来事だったので当事者以外は誰も知らない。
 椰子やバナナ、あるいは日本の棕櫚のように枝のない木の大木が嵐か地震で海中に落ち、流れ流れて今の海岸より2キロも北にあった海岸線に流れ着き、波や風に吹き上げられた砂で陸地が海の方へと伸びて現在のようになったのではないか。そして、その時、砂に埋められ何千年か何万年か時間が経過して、掘り出されたものだろうと勝手に想像したものである。
 あの時の大木がよく調べられていたら、九十九里浜の今昔がよく解明されたことだろうと思った。
 部落の共同墓地に覆い被さる木を取り除く事になった時、町の材木屋さんが庭を造りなおすというので「背景にこの木を使わぬか」と交渉したら、「届けてくれるなら買う」というのでそのようにした。後日、完成した庭を見学に行った時、何年か前の大木の話をしたら、我々は考古学より現金収入が優先なのでそのようにしたと言っていた。

(中野)