東京大空襲の下町で
道の真ん中にマネキンが

寺山貞幸
 それは昭和20年3月9日、私が15歳の時のことである。当時、私は今の浅草通りに面した台東区松葉町(今の松が谷)に住んでいた。
 いつものように少し早い夕食を済ませ、ゲートルを締め直し床についた。(何時空襲が来ても良いように当時は服を着替えて寝るようなことはなかった。)爆撃機の定期便で目が覚めたが、これもいつもの事。大して気にも止めずに床の中からひょいと硝子戸を見ると大変だ。外が昼のように明るいので急いで飛び出した。
 2、3軒先の家に焼夷弾が落ちたらしい。消防用のバケツを取りに家にとって返す。母も起きていて、「もう消えないよ。逃げよう」と防空頭巾を被り非常持ち出し用の風呂敷包みを背負っている。
 私も木彫師の父が「俺のいない時はこれだけ持って逃げてくれ」と言われていた鑿の入った行李を一つ、自転車に積んで飛び出した。もうその時は広い通りいっぱいに上野から駒形の方に火の粉がまるで急流のように流れていた。
 尻込みする母を引っ張って、「火の川」を渡った。そして2、3日前の焼け跡のある方に行った。そこで防空壕の跡を見つけて入り込んだが、なぜか周りには人が誰も見えない。寒さと怖さに震えながら夜の明けるのを待った。
 明るくなったので、家に帰ろうと道路に出るとアスファルトの道路が煮立ている。家の近くに来ると道路の真中に「マネキン人形」があった。気にもせずすり抜けようとするとビックリ。焼け死んだ人だった。生まれて初めて見る死んだ人に声も出なかった。その後、いく体にも出会うことになった。
 誰もこのような体験を孫達にさせたくないのは当たり前だ。今の政府に任せておくとなりかねない。今こそ戦争反対の声を皆が挙げないといけないのではないか。

(台東)