灼熱地獄で玉音聞く
青雲の志も一瞬に去った日

大工 小山七郎
 歳月はめぐりて、今年60回目の終戦記念日がすぎていきました。
 私は、尋常高等小学校を卒業後すぐ、志願で埼玉県朝霞の陸軍予科士官学校に入り、学校の馬術部へ入った。そう、14歳の春でした。紅顔の美少年と書いておきます。
 士官学校は、練兵場を含め、朝5時に起床となり、馬術部も点呼の後で、馬にまたがり、駆け足で45分以上もかかる広大な場所を走りました。そこですごした五ヵ月余りの生活は、私にとって貴重な体験となりました。
 ここでの軍律は、日本一といわれるほどに、きびしいものでしたが、1回の休暇もなしで勤めてきました。しかしながら思えば、殴られに行ったようなもの、一度は脳天を叩かれて失神したこともあり、今では忘れ得ぬ思い出となっています。
 そして、昭和20年8月15日、朝から快晴で日が昇るにつれて炎天下となりました。
 上官からは正午より重大放送があることを伝えられ、全員正装して校庭に整列。私たち下ッパには、作業服しかないため、なぜか支給されていたラシャでできた冬服の分厚い下着(長袖とズボン下と紐で結ぶもの)と、それにゲートルを巻いた格好で10時すぎより直立不動の姿で並んでいました。
 何のこともない、まるで我慢会のようになり、汗が体中から流れ落ち、靴の中で池を作り、生徒は櫛の歯が抜けるかのように、前後左右に倒れていく。まさに灼熱地獄のありさまの中、生徒たちは、陛下の玉音放送を耳にし、男泣きで崩れていきました。
 青雲の志は一瞬に去っていったあの日。   (品川)
(武蔵野)