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館林でグライダーの訓練
家から300mぐらいの所に周囲5キロメートルほどの沼があり、そこには自然がいっぱいあった。沼には水生植物であるむじな藻をはじめ数10種の藻類、蓮、ヒシなどが生え、また水生昆虫やナマズ、コイ、フナ、ウナギなど魚類、エビ、モズク蟹、その他の小魚などが生息していた。小学校の3年生ぐらいから、夏には釣りや水泳をして遊んだ。 昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まり、少年達にも戦争が影響を及ぼすようになってきた。 18年に入ると国民総動員となり、小学生は農家の草取りや麦刈りに勤労奉仕で動員された。物資は統制されて配給制が敷かれ、自由に物が買えない時代になった。 昭和19年には戦局も厳しくなってきて、南方諸島では米軍の攻撃で「玉砕」という報道も伝わり、また海上では日本の艦隊が撃沈されたという大本営発表が相次いだ。また本土にも空襲が頻繁にやってきた。 私たちは総動員の一環で、中島飛行機という軍需産業の館林工場に学徒動員され、朝7時から夕方5時まで働かされた。その頃は空襲も激しくなり、艦載機やB29爆撃機などもやって来た。 19年の秋には特別飛行少年兵に志願させられて合格。20年の7月から館林飛行場に邑楽郡から志願させられた少年たちが集められ、グライダーによる訓練を受けた。 宿舎は小学校で陸軍の兵隊と同居していた。飛行場まで4キロメートルの道を歩いて往復した。 8月13日のお盆に家に帰され、15日の正午発表の玉音放送を聞き、戦争が終わった事をそのとき初めて知った。 (日野)
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