故郷延岡の空襲
焼夷弾に逃げまどう

矢野ミキエ
 私は宮崎県延岡市の出身です。人口10万人余りの町に、旭化成の6工場が点在し、高い煙突がそびえて、県外からの労働者も多く賑やかな町でした。実家は町から車で20分ぐらい離れた戸数200戸程の部落です。周りを畑や田んぼ、大瀬川、五ヶ瀬川に囲まれて日向灘にも面したのどかな農村です。
 昭和20年6月末、米軍機B29による爆撃を受け、町は火の海となりました。前、西隣の家が焼け、火の粉がたくさん飛んできます。台所の軒下に焼夷弾が落ち、父がムシロをかぶせて消し止めると、もう一弾、小屋の屋根瓦にあたり、庭にスッポリと穴をあけました。
 私は当時小学校1年生。兄姉と3人が家の防空壕で、怯えていると父に「ここにいては危ない。早く裏山に逃げろ」と言われ、田んぼの中を一目散に走りました。
 道路はとき放された牛や馬などが暴走しているのです。真っ赤な炎で夜中の田んぼが昼間のような明るさです。裏山には近所の人達も逃げて来ていました。
 明け方、家に帰ると幸い実家から東側7軒が残っていました。くすぶる煙ときな臭い油のにおいは今でもはっきり覚えています。
 叔母一家も家を焼かれ、防空壕にいた家族6人のうち3人の子どもは焼夷弾の直撃で即死、残った叔母と子ども2人も顔や手に大火傷を負い、私の家に身を寄せました。また近所の同級生のお兄さん、19歳と16歳の兄弟達は特攻隊で出撃する時、低空飛行で屋根スレスレに3回程旋回して南の空に消えていきました。後に遺骨となり母親の胸に抱かれて帰ってきました。
 あの恐ろしい戦争を子や孫達に伝えていきたいと思います。有事法制などを実施させないように頑張りたいと思います。

(豊島)