青春を奪った徴兵
9条守り戦争繰り返すな

三宅孝吉
 その日の朝食の時、突然ラジオで大本営陸海軍部発表があった。「帝国陸海軍は本朝未明ハワイ真珠湾を攻撃、米英と戦闘状態に入れり」というものだ。冗談ではと雑音のうるさいラジオの頭をポンポンと叩く。報道は同じ事を繰り返す。やっぱり「戦闘状態に入れり」だ。夢じゃないよこりゃ。
 昭和16年(1941年)12月8日よく晴れた空、飯を噛み噛み家を出る。足が地をける。自然と歩調が早まる。中仙道では市電には乗らない。巣鴨地蔵通りから駕籠町を経て勤務先の理研正門に駆け込む。朝8時半だった。
 笑顔の美しい受付のおばさんに今朝のニュースを聞いたと尋ねたら「大変な事よね〜。米英と戦争だって」と。職場の同僚、上司らにどう思うと聞くと「よくやった。でも大丈夫かな〜」と眉間に皺を寄せる。
 私は他人事じゃない。18歳を迎えて間もないが、3大義務の徴兵で海軍入隊が決まっていた。「仕方がない。いよいよ死ななきゃならん」と覚悟を固めた。
 この頃は戦地へ前線へと向かう兵士たちや、白木の箱で帰って来る遺骨は数知れずだから、私にもその日が迫っていたのは間違いない。まあ内地に居ても衣食は益々不自由だし、逃れる術はない。まだ一枚のの恋文も書いたことないのに、こんなはかない一生とはと嘆いた。
 親、兄弟を残して広島の兵舎に入った。そこでは訓練、殴る、蹴る、ろくに飯も食わせないなどと罰ばかりが厳しい。それは地獄の苦しみだった。
 めぐり合わせで生き永らえたのはそれも運命か。今更ながら「戦前、戦中の愚かな軍国主義の社会を絶対に繰り返してはならない、憲法9条を守ろう」と決意を固めている。開戦63年目を記念して。

(板橋)