母のようなおかみさん
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表具工 宮島惇夫 |
私は昭和30年3月、中学校を卒業すると4月7日に友人2人と経師屋の修行のために上京。経師屋とはどんな仕事なのかもわからずに出てきたので、経師屋とは襖屋だとわかったのは、東京に着いてからのことでした。
当時は集団就職の時代で、宮崎県から汽車で30数時間かかったと思います。親方の店は小さく、新宿西口の大ガード近くで、青梅街道に面していて、表は都電の発着点がありました。そこに親方の家族4人と兄弟子が1人、職人が1人で6人。さらに2人が来たので、8人が6畳と4畳半に住むことになり、7年間の丁稚奉公が始まりました。
給料は月に1000円で、その中から500円は貯金し、500円をこづかいにしました。休みは一日と十五日の2回、仕事はつらかったけれど、自分に合っていたのか面白く、楽しかったように思います。店の皆さんはとてもよくしてくれ、かわいがってくれました。中でもおかみさんは、よくしてくれ、休の日には親方に内緒で「映画でも見ておいで」と300円くらいをそっとくれました。中華(しな)そばが30円くらいだったので、映画を2館見ても充分でした。
私には、おかみさんの優しさが、お母さんのように思えて、つらい修行も頑張ってくることができ、今の自分がいるのだと思います。もうこの道50年にもなります。そのおかみさんも、親方も亡くなりましたが、おかみさんが亡くなったときいただいた湯のみセットが今も茶箪笥の隅に残っています。
(西東京)
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