5歳で戦争を体験
次兄は23歳で帰らず

電工 江野宗太郎
 わが家は、関東平野から秩父連山に通じる街道が交わる三叉路にあった。昔は馬車が行き交う街道で、馬頭観音の石碑や宿場町の面影を残す鍛冶屋、棒屋、足袋屋、酒屋、畳屋、饅頭屋、御茶屋等の軒がつらねていて、長屋とよばれていた。
 その頃、木炭自動車も走っていた。機織の秩父と和紙の小川町と川越を結ぶ中間に位置し、木炭車はわが家の井戸から水を補給し、木炭をボイラーに入れ、しばらく「ふいご」を回してから出発して行った。
 私が5歳の頃は、生活のすべてが自給自足であった。畑で木綿を育てて綿をとり、糸をつむぐ祖母と、その糸を染めて機織をする母がいた。
 まもなく戦争の色も濃くなり、庭先に防空壕を作り、空襲警報のサイレンと同時に逃げ込んだ。やがて東京を爆撃したB29が空高く北へ向かって編隊を組んで飛んでいった。そのとき豆粒ほどの戦闘機が近づいたが、パッと白い雲の固まりとなり、やがて青い空に消えていった。
 夜になると東の空が赤く染まった。東京が爆撃で燃えているのだと人伝いに聞いた。戦火もしだいに身近に迫り、「バリバリ」と大きな音と共に顔見知りの人が片足を失った。そして、まもなく終戦となった。そのとき、長兄は戦地満州に行っていた。終戦まもなく大きなリックサックを背負って帰ってきた。その兄も3年前に他界したが、戦争の話を聞くことはなかった。次兄は幼くして東京に洋服仕立て奉公に行き、自分で仕立てた背広を着ていた。戦争が激しくなる中、戦地に行き、23歳の若さで帰ることはなかった。
(三鷹)