病院で半身不随に
「また仕事したいよ」と

電工・菅原肖治
 彼は、私に言わせれば昔風のできる職人だ。大柄な体であるが緻密な仕事をする大工である。同年輩で東京土建には昭和30年代から加入していて、組合の活動があると必ず迎えに来た。工務店としての旅行や東京湾近辺の河口でハ
ゼ釣りにも楽しく行った。
 親子二代の職人で浅草の料亭とか和風建築では自慢できるものだった。しかし、私も彼も加齢によって心臓や血管がくたびれてきて病院で検査するようになった。病院のベッドがあいたということで彼は、急いで仮入院して血管のカテーテル検査を受けた。その結果、頭の方でピカッと光ったと言う。それで彼は、半身不随になった。
 私はその知らせを聞いて病院に見舞いにいったが、手足が不自由でもなんとか会話ができるので、まあまあ一安心した。図体がでかいのでリハビリは大変のようであった。彼は私に「肖ちゃん、隣のベッドが空いてたよ」と教えてくれたが、私はその病院の検査は真っ平ご免だと思った。
 その後何年かたって、病院は退院を勧めている、と奥さんが相談にきた。私は病院のミスで不自由な体になったことなので、奥さん一人が辛い思いをしても病院に通ったほうがよいと、答えた。
 その後十何年も彼は病院で頑張った。正月に彼は布団の上に座ってテレビを見ていて「肖ちゃん、イラクの戦争は大変だなあー」と言った。わたしも「馬鹿なことだよ」というと彼は、急に真面目な顔をして「肖ちゃん、俺、また仕事がしたいよ、その時は一緒にやろうな」と言った。私は我慢できずに泣いた。それから僅かな月日に逝ってしまった。彼の名はT・耕作という。
(台東)