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辛苦に満ちた満州引揚げ
1945年8月、当時5歳だった私は中国北部の佳木斯(チャチス)に住んでいました。 ある晩、北方の山の彼方から雷鳴のような音と閃光が夜を徹してあったそうです。翌日、我が一家、母と2人の姉、幼い妹と私の5人による辛い故国への旅が始まりました。それは昨日までの生活とは一転した苦難の旅でしたが、幼い私には汽車に乗れるので嬉しくてならなかったという記憶があります。やがて汽車は貨車になり、無蓋車となり、ただ泣きじゃくるだけの日々。後日、姉達から「輝夫は本当に泣き虫だった」とよく言われたものです。 車両による移動が途中から徒歩に変わり、吹きすさぶ寒風の中、泥濘に足をとられながら歩く辛さを今でも覚えています。 そしてようやくたどりついた新京、長春での日々。今まで「チャンコロ」などと呼び、侮辱してきた人々と180度立場の逆転した生活でした。ソ連軍が進駐してきた日に、上の姉が髪を切り、顔に炭を塗っていた事、周囲のおじさん達の姿が急に少なくなった事などがあって、平穏を取り戻したある日、新京までたどりついたが、栄養失調で亡くなった妹の眠る地に跪きながら母が言った言葉、「お前だけおいていくけどゴメンネ。いつか必ず迎えに来るからね」。あの声は今も耳から離れません。 その母もこの世を去り、心残りだった妹を胸に抱きしめていることと思います。 私の体験は同じ満州から引揚げてきた人に比べれば恵まれています。かの地で亡くなった人達の無念を想い、2度と同じ過ちを繰り返してはなりません。憲法9条を守り抜きましょう。 (東村山)
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