教宣部でめざめた
無関心の罪深さ気づく

建築 田山徳子
 戦後生まれの私は、何事も普通が一番、他人から見ればえーっと思うできごとも、良いのか悪いのか“柳に風”と受けとめる性分で、神棚の福だるまや、旅先の神社、お寺、道端のお地蔵様にも「平穏無事に」と、願掛けを忘れず、年を重ねてきました。
 末の子も無事成人となったこの頃、私にとって「忘れえぬこと」は、ただいま進行中です。
 それは二年前、組合活動との出会い、これまで自分のことで精一杯だった私は、平和運動や社会問題、政治の動向など、気にはなってもそれは『特別な人たち』が活動し、行動するものだと思っていました。無関心でも世間体は保てるし、悪いことはしていないし、自分には関係ないこと。
 ところが分会の教宣活動にかかわることになり、数々の学習会に参加するうち、今までの考え方がまちがっていることに気がつきました。たとえ庶民でも世の中の動向に無関心でいることは罪深く、一人ひとりが行動しなければ、何も変えることができないという自覚がなかったのです。
 組合活動は、組合員の権利を守るだけにとどまらず、平和憲法を守る運動などさまざまです。普通の人が、仕事の合間をぬって時間をさき、活動していることに驚き、頭の下がる思いです。一般の人は何かしたいと思っても、活動の場がないのが現状かも知れませんが、私はその場に近づいた気がしました。
 この世に偶然はないといいます。何らかの主張を行動に移すべく、自分の意識がゆっくりと動き出したところです。『出会い』を大切にしながら、正しいことを見きわめられるよう努力し、できるだけ多くの人に伝えていくのが使命と心に誓いました。
(練馬)