叔母夫婦が導いた
平和運動ライフワークに

野口邦子
 母と三つ違いの叔母は東京で恋愛結婚をした。つれあいとなった叔父とは、四畳ほどの小さな部屋に間借りをしていました。私はよく遊びに行っていたが、印象に残るのは大きな机と椅子。回転する椅子は数年後に、いとこを遊ばせる道具になりました。
 まだ小さな私は、叔母夫婦と大人ばかりが集まる場所にいた。記憶に残るのは「原爆の子」の映画数カットと、幼い私を机の上に乗せて「あー許すまじ原爆をー」と歌ったあの日。あれは何だったのか、数年間を心に閉じておいた。聞くことの恐ろしさをはじめて知ったからです。
 私は小学生になってからも毎週のように土曜日になると叔母夫婦の家に通いました。叔母たちといるのが楽しかったのです。それでもあの日のことは聞けずにいました。
 高学年になったある日、母が「第五福竜丸」の映画を見せてくれました。あの日のことを思い出さずにはいられません。再びあの恐ろしさを知ることになるのです。映像といえど、私には忘れえぬこと「きのこ雲」の画面です。
 叔母夫婦に映画の内容と、幼い頃の「あの日」の記憶を話すと、私に一冊の本を差し出し「これクン子に上げるから読みなさい」と叔父が言った。「原爆の子」という本。何回も読み返したが、涙が先で理解するには程遠いことでした。
 20年前私は「平和運動」をライフワークにしようと決め、叔父に連絡すると「自分の生きる道に未来を信じ“自然な気持ち”で前を見て進んでください」という請い文が届きました。
 毎年1月1日の平和行動、今年で16年になる「原爆写真展」など、土建の活動と平行して夫と歩んでいる。

(渋谷)