肺ガンで逝った二男
職業病認定闘争で供養を

小野満
 20年程前に、「バイクの免許を取らせて欲しい」と懇願する二男の克彦に私は、可哀想で折れそうな気持ちに鞭打って「絶対に駄目だ」と涙声で拒絶した。「何で駄目なのか、僕は必ず交通規則を守るから許可して欲しい」とかなり強硬な談判となった。しかし私は「バイク事故には必ず相手がいる。事故を起こすのはバイク側の勝手で、自分が死のうが、障害者になろうが仕方が無い事だが、相手にどれ程迷惑を掛けるか考えてみることだ。また、お前は法定通りの運転をするというが、仲間と一緒に走って、お前だけが法規遵守などできる訳が無い。これは、お前が可愛いからこそ、親としての責任上許可できないのだ」と懇々と諭した結果、克彦は免許取得を諦めた。
 その後、日ならずして克彦の親友がバイク事故で即死状態で逝った。ある日、克彦がしみじみと私たちに言ってくれた言葉は「あの時に親が僕の頼みに負けて許可してくれていたら、今ごろは僕も死んでいたかもしれない。本当の親の愛情はこういうものだとわかり、心から感謝している」だった。
 その後、大学を出て府中国立支部の書記として採用していただきながら、私の後継者としての長男からたって頼みで、2年間で退職させていただき、私の業に携わって懸命に働いた。しかし昨年6月、まさかの肺癌を宣告された。若さのためか転移が早すぎ、約1年間の闘病生活の末37歳で逝った。
 肺癌と診断されて以来、本支部の労働対策部の援助を受け、職業病の認定闘争に着手していた。私としては、わが息子の例が、多くの仲間の今後の闘争に役立ってくれることを祈る気持ちで一杯である。
 それが最愛の息子、克彦への最善の供養になるものと信じている。

(村山大和)