惨劇地に住む因縁
薄れゆく戦争の悲惨さ

荒川忠助
 今年3月初旬、毎日新聞の特集記事「戦後60年を振り返る」の中の写真(ボロボロに焼けただれた死体の山、水を求め川に向かって走るボロボロの衣服をまとった人間)を見て、戦争の残酷さを思い知ると同時に60年前、茨城県の片田舎で、防空壕の中から見た光景がこれだったのかと思い至った。
 小生の生まれたところは、東京から65キロメートル北方に位置し、筑波山を東に眺める、東京からはるかはなれたところにあった。あの日、昭和20年3月10日、この夜に限って、南の空を赤々と染めるほどの、その空を見つめた時、まるで利根川の向う岸が燃えているようにさえ感じた。
 16歳で東京に出て、転々と住所を替え、仕事を替え、いつの間にか住み着いた所が、60年前あの防空壕で見た赤々と染まった、東京空襲の最大の惨劇地に住むとは、何と不思議な因縁だなと思う。
 いま私が住んでいる墨田区立川四丁目には60年前の被災者の霊を弔う行事として「十日会」という会が地元の有志によってで作られている。3月10日には、お坊さんに来ていただき、慰霊にお経を上げてもらっている。当日は地元を離れ、千葉県や神奈川県に住んでいる方も多くお参りにこられているという。
 しかし戦後60年という日々は、被災者の親類や行事を引き継ぐ人々の減少、ましてや戦争がもたらす悲惨さ、残酷さを忘れさせ、二度と起こしてはならない戦争を、容易に受け入れようとさえしているように思えてならない。
 自分さえよければ良い、自分さえ守られればという「合理的な社会」勝ち組であれば良いという方程式につき進んでいくことが怖い。

(墨田)