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緑豊か石神井川周辺 ― 上流に近藤勇が眠る墓所 ― 昔はこの辺りの石神井川は台風の時期になると降雨の被害で水が増え苦労したものです。今は治水処理が施され、川の中に人工的な親水公園を作り、水車や魚道があって、川底に凸凹を設け、流れる川に酸素を与えて、川の水をきれいにする作戦で設計されています。 川には木製の舟串橋がかかり、薄暗い中で殺人事件でも起きたら早速、事件物としてマスコミのネタになろうかとも思われます。この石神井川の上流に滝野川7丁目の板橋駅東口(滝野川口)があります。 その駅前には、近藤勇の墓が昔からあって、墓の下を掘ったら刀や鎧が出てくるんじゃないかと、子ども達はおっかなびっくり話し合ったものです。 今の駅前の舗装道路の下は暗渠(あんきょ)で、昔は小川の流れでした。 滝野川7丁目の今の飯田百貨店辺りは、水引屋の原っぱでその前に駄菓子屋があり、仕舞屋(シモタヤ)が並び、泥土の道を真っ直ぐ下ると先刻の小川に行き当たり、そこに架かる木の橋を谷端橋と言い、橋の左手前が材木屋でした。 右側は水引屋の原っぱの隣が6軒ほどの仕舞屋(シモタヤ)。その隣に那須さんと言う寺で、裏手に墓があります。 細い道を挟んでコーノトンと言う当時としては、しゃれた映画の吹き込み所があった。 映画の撮影所は西巣鴨の新中山道(現17号)沿いにあって、目玉の松ちゃんたちが活躍したのを、当時を知る人々には懐かしく思い出されるでしょう。 |
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寺院や路傍に残る伊奈石 ― 五輪塔や板碑に使用 ― 「伊奈」の地名の由来は、江戸時代のはじめに江戸城の石垣をつくった信濃国伊那(現在の長野県上伊那郡高遠町)の石工たちが移り住んだのが村の起こりとする説があります。そのころ、石工たちが移り住んだことは確かですが、「イナ」という地名は、石材の産地や岩石に由来する地名で全国各地にあり、石工たちが移り住む以前からイナという地名があったようです(たとえば東伊豆の「稲取」も江戸城の石材の産地として知られています)。 伊奈石は青みがかった、つぶの荒い砂岩で、加工しやすく、横沢入の西から北の山にかけてこの石のでる層には必ず石切り場の跡があります。 伊奈石製の石造物は伊奈臼、五輪塔(中世に有力者の墓に使われたもの)、板碑や石橋、井戸枠、道標、などで、中世南北朝時代から、江戸時代中期にかけて、多摩川流域から埼玉、川崎まで流通し、現在も各地の寺院や路傍に残っています。 大悲願寺も境内をよくみると伊奈石が使われているところがあります。 伊奈石は、明治以降より硬い甲州花崗岩などの流通に押されて次第にすたれ、石切り場で石を切る人もいなくなりました。 すり鉢状の採石坑2ヶ所、露頭掘り40ヶ所、ズリ場14ヶ所、古道4ヶ所など一帯に遺跡が民間の調査によって確認されていますが、全体としての案内図が整備されていません。 現在、伊奈石の石切り場への散策路は、道端に案内図が掲示されているところもありますが実際には道が崩れていて、コースが一部変わっています。それでも比較的歩きやすい山道です。 |
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四季の折々を楽しむ ― 花見には組合の仲間も集う ― 川は、西荻窪より環状8号線を横切り、荻窪へとくだります。周辺には荻外荘(近衛公爵の屋敷跡)があり、区内では珍しい鐘桜門がある中道寺、荻窪団地、参道脇の桜が見事な田端神社、須賀神社と続き、そして川は成田へと流れます。 川の流れを追って歩くと川の両岸をつなぐ橋に様々な名前が付き、その数は相当なものになります。なかでも五日市街道を交差する尾崎橋は都内でも有数の花見の名所です。 隣接する「善福寺緑地公園」の中でも上流の神通橋から尾崎橋は桜の時期は大賑わいとなり、川べりを歩くと、「東京土建」ののぼりを立てた花見の宴会にいくつも会います。今年は気候が行きつ戻りつしたせいか、桜が長持ちして花見が長く楽しめたようです。 川の流れとともに、周辺の公園の草木の変化に季節を感じる杉並区民は、今、春の芽吹きに包まれ、これからは初夏へと変わる景色を楽しみます。 さて、桜が終わると、次の楽しみは堀ノ内1丁目から2丁目の善福寺川にかかる紅葉橋と熊野橋の間に4月24日から5月8日までの間、「こどもの日」を祝って勇壮に風をはらんで泳ぐおよそ60匹の鯉のぼりです。川には本物の鯉が泳ぎ、夏には東京の「へそ」と言われる大宮八幡の森と一体となる和田堀公園で、夏の夜、ホタル鑑賞の夕べが開催されます。 私たちは区民の憩いの場となっている善福寺川とその周辺の自然を大切にして、四季を通じて変化する川沿いの景色を楽しみに一年を過ごします。 |
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戦災を今に伝える ― 学校教育でも利用され ― この間、残念ながら私達の願いに逆行する事態が進行中です。 平和憲法を踏みにじり、イラクの人々に銃を向け自衛隊員の命を危険にさらしてまで強行する派兵を即時中止してもらいたい! 開館以来の来館者2月22日現在で1万8685人となっています。小中高校生など見学や授業に、資料調査に約4500人が来館しました。国外では、アメリカ、デンマーク、ドイツと広範囲の国の人々が訪れています。 岩手、滋賀、兵庫、三重など遠方からの修学旅行のコースに組み込んでいる中学校もあります。江東区でも、国語の授業で『ちいちゃんのかげおくり』、総合学習で東京大空襲の童話『あしたのやくそく』を勉強した区立川南小学校の児童4人が訪ねてきました。 このことがきっかけになり、2日間の総合学習の時間に3年生全員(90人)が地域と東京大空襲のことを当センターで学習しました。この総合学習は3年生3クラスの先生と保護者代表が事前に打合せに来て、センターと共に準備しました。 資料や体験者の話に学び、戦争と歴史の真実を知り、命の尊さと平和への思いを心に刻んでいます。後世代に平和のバトンを渡すためにも、もう一回り参観者が増えてくれればと思います。 3月6日に当センター開館2周年のつどいとして、「語り継ぐ東京大空襲‐今考えること」が江東区総合区民センターでおこなわれます。戦災孤児を書き続ける作家の西村滋さんが「夕やけこやけ‐東京大空襲あの日の少年のこと」と題して講演をします。また実際に東京大空襲のときに被災した方の話やイラク戦争反対の演劇人の中心になった女優の渡辺えり子さんがビデオ録画で発言するなど内容の豊かなものです。 入場には500円が必要になります。戦災資料センターへ訪れるのと合わせて、この企画にも参加してみてはいかがでしょうか。 |
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昔日を偲ぶ小船の名 ― 海苔養殖やアサリ漁の町 ― 私はこの町に住み始めて30年近くがたとうとしています。この町で結婚し、子供を育てました。でも、自分の住んでいる葛西の町のことなど、生活に追われ振り返る余裕などありませんでした。 こんな現在の葛西でも往時をしのぶ場所があります。旧江戸川にかかる浦安橋の少し下流から上流の今井橋にかけて土手を歩いてみると屋形船や釣り舟を営業している船宿が軒を並べています。 「あみ元」「あみ武」「あみ貞」「あみ幸」等等と大抵は網の名がついています。川岸にはそれぞれの屋形船や釣り舟がつながれています。 今ほど陸上交通が発達していなかったころは、水路を使って米や味噌、醤油が上流から江戸の町へ運ばれ、江戸川はとても重要な役目をしていました。 東京湾に面した葛西沖では浅草のりの養殖も盛んで季節ともなればどこの家もノリを干す光景が見られたといいます。かつてはアサリ漁でも一晩で舟が沈むほど採れたそうです。 現在では護岸が整備され、江戸川の流れに手を触れることは簡単に出来なくなりましたが、昭和30年の初めころまでは岸には葦やヨシが生い茂っていたことでしょう。 東西線の浦安鉄橋あたりは今でも活気があり、東京湾に繰り出す「屋形船」、「遊漁船」がひしめいています。屋形船は100人も乗れる大型船。もちろん冷暖房つきで真冬でもポカポカです。遊漁船は高速船で木更津あたりまで飛ぶように走ってくれます。 川面に浮かぶ舟や波にくだけるその影を見ていると心が落ち着きます。わが町もいいもんだなぁと思います。 |
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生活感溢れる朝市 ― 住宅デーは恒例の祭に ― また、この付近の景色で素晴らしいのは西新井橋から見える富士山です。池袋のサンシャインビルの方向に見えるのですが、天気のいい日は青空の中にくっきりと映え、夕方は夕焼けの中で雄大に見えます。 関原の地名は昔にはなく、広く「本木」という地名でした。現在の尾竹橋通りが出来て、新しく関原という地名になりました。もともとは、江戸時代から大聖寺(関原不動)という寺であったことから、この地名になったようです。もっとも、関原小学校の校名は50年前につけられています。 その関原小学校は、関原分会の多くの仲間の出身校です。分会の組合員は地元生まれ地元育ちが多く、関原小学校、そして中学校は第7中学校の卒業生で現在も地元に根ざして組合活動や仕事をしています。 関原分会は、毎年この地元の八幡神社境内において住宅デーを開催しています。お祭り好きのこの地域の皆さんは住宅デーの開場の1時間前から並んで待っています。地域の方々への感謝を込めて開催する住宅デーは年に一度のお祭りとして地域の皆さんに大変喜ばれています。 関原には商店街が沢山あります。関原イーストロード、関原銀座商店街、関原不動商店会が中心となっています。特に写真にある関原不動商店会の開く月1回の朝市はとても多くの人々で賑わいます。朝市の日には、通りにいくつも出店が並びます。また住宅デーを開催する八幡神社もこの商店街の中に位置しています。 この地域に暮らして、暖かい人情の中で生活している喜びを感じています。いつまでも、この街での暮らしが続いていくのを心から願っています。 |
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刑死した志士眠る ― 解剖が科学進歩に貢献 ― 日光街道から入る通称「コツ通り」を南下し、常磐線の線路にぶつかる手前に浄土宗国豊山小塚原回向院がある。コツ通りの「コツ」とは、小塚原から転化したものとも、また小塚原処刑場との関わりで骨の意味とも言われている。 小塚原回向院は寛文7(1667)年、本所回向院の住職が刑死者などの菩提を弔うため、千住街道中の小名小塚原繩手と呼ばれた現在の地に開いた事に由来する。実はこの一帯が小塚原刑場であり、現在常磐線と地下鉄日比谷線南千住駅に挟まれたところにその史蹟がある。 墓地には、相馬大作(南部藩)、安政の大獄で刑死した橋本左内(福井藩)・吉田松陰(長州藩)、大老・井伊直弼を殺害した桜田門外の変に連座した浪士、明治政府に抵抗して斬首された雲井龍雄など、いわゆる国事(政治)犯とされた志士たちが多く眠っている。 また、演劇で名高い片岡直次郎、鼠小僧、高橋お伝など多彩な人物も葬られている。火付け盗賊も政治運動に身を投じた志士も、江戸幕府や明治政府からすれば等しく大罪人として小塚原刑場で仕置きされた。 境内を入ると和蘭医書の扉絵を浮き彫りにした銅版をはめた碑がある。その銅版には、「明和8(1771)年3月4日、蘭学者の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵諸子が刑死者の腑分け(解剖)に立会い、後日『解体新書』を大成。我邦西洋医学の淵源」と刻まれている。大正11(1922)年に建立された観臓記念碑である。 杉田らが翻訳した西洋医書は、ドイツ高等学校の教授ヨハン・アダム・クルムスの解剖図譜の蘭訳書『ターヘル・アナトミア』であり、4年の歳月を経た安永3(1774)年、『解体新書』5巻として刊行されている。 小塚原刑場での死刑囚の解剖は、日本医学史上だけでなく、思想・科学史上にとっても、特筆すべき事件だった。 |
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玉川浄水と係わり ― 処刑された役人の嘆き ― 府中市の位置する地形は、古く多摩川の働きによって形成された河岸段丘であり、南から階段状に沖積底地、立川段丘、武蔵野段丘の3つに分けられます。そのため、それぞれの段丘間は坂によって結ばれています。 これらの坂は往還としての機能は勿論のこと、かつては子供達の遊び場として、人々の日常生活と深くかかわっていました。 また、坂は他の地域からの文化の導入口でもありました。こうした役目をもった坂には、それぞれが名前と歴史をもっています。坂の由来について分類すると、おおよそ次のとおりです。(1)坂から望む遠くの山や海の名を付けたもの、(2)坂の前方に展開する景色や眺望の良さを表現したもの、(3)口碑や伝説によるもの、また動物や植物等によるものがあります。 「かなしい坂」。この坂の由来は玉川上水の工事と深く係わりがあると言われています。 玉川上水は4代将軍徳川家綱の時代の承応2年(1653年)4月に着工し、翌年の承応3年6月に完成したものです。取水口の羽村から四谷大木戸まで実に延長11里弱、43キロメートルにもなる大工事でした。 開削工事を担ったのは、羽村出身の庄右衛門と清右衛門の兄弟でした。彼らのすばらしい功績により、御上から玉川の姓をさずかりました。 玉川上水は、はじめ府中八幡道(やわたみち)、現在の鳩林荘(きゅうりんそう)下から掘り起こし、お滝神社の上から現在の東郷寺を通り、京王線、多磨霊園駅を経て神代あたりまで掘削して導水しました。そして、かなしい坂あたりで地中に浸透してしまったと言われています。 全責任を問われて処刑された役人が「かなしい」と嘆いたことから、この名があると言われています。この時の堀には、「むだ堀」、「新堀」、「空堀」の名で今も残っています。 現代ならその役人も辞任ぐらいで済んでいたかも? |
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首なし正雪地蔵尊 ― 文人いた閑静な住宅街 ―
矢来町は今も緑が多く、閑静な住宅地ですが、史跡や文人住居跡が数多くあります。昔、小浜藩、酒井若狭守の下屋敷があったとされています。 明治の頃は、作家、武田仰天子の作品『夜の矢来』(文芸界)では「樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換えた方が適当でしょう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざわざわと騒ぐ様は是れが東京かと怪しまれる程」と紹介されています。 矢来町3番地には、作家の広津和郎も住んでいました。昭和24年に松川事件があり、広津はこの事件に関する意見『真実は訴える』(中央公論)を発表して以来、昭和38年の無罪判決まで情熱をもって、数々の論文や著書を出したのは有名な話です。文人と言えば、隣町に尾崎紅葉居住地跡があります。紅葉は句で、「この内に鳴けほととぎす矢来町」とうたっています。 町内に秋葉神社があり、入口右手に正雪地蔵尊を祭る祠があります。眼病に効能があると今も信仰されています。元は酒井家の敷地内にあった物を酒井家が移転する際に町内の守り神として、町に譲られたものです。地蔵尊は御影石で作られ、頭部の欠けた織部灯篭のキリシタン灯篭とされています。信徒の連絡用や密かに信仰するためのものだろうと言われていますが、確実な証拠はありません。正雪地蔵と呼ばれたのは北方の天神町に由比正雪の住居跡があるので結びついたものです。 近隣の町に光照寺があり、由比正雪の抜け穴があると騒がれた時代もありました。事実、光照寺の昔の境内を基礎工事した時に、大きな横穴が出て来ました。好奇心から穴に入るつもりでしたが、危険と気味が悪いので埋めてしまいました。今思えば何の穴かわかりませんが、場合によっては歴史に触れたかもしれません。 近隣に文人、史跡の多い神楽坂、横寺町があり、休日になると、ガイドブックを片手に散策を楽しむ人々をよく見かけます。 |
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淡々と湧く井戸水 ― 霊験あらたか子育て稲荷 ―
今も尚、都内に残る古道の一つ「大山道」、現在の玉川通りや世田谷通りは世田谷の歴史と共に栄えてきた道です。玉川通りの旧道(池尻旧道)の中間地点にある「池尻稲荷神社」は当時の名残を今に伝える貴重な神殿です。 昔ここは豊作を願う農民や商売繁盛を祈願に大山詣をする旅人たちが一服する憩いの場所だったようです。 区のお知らせでも、「都会のオアシスと呼んでもいい神社の杜、木造の神殿、そして今も滾々と湧き出る井戸水は私たちの忙しい生活を癒す場所ではないでしょうか」と紹介されています。 仄かな甘みとサラッとした口あたりのおいしさときたら、最高のご馳走でしょう。近くの『焼酎BAR池尻寅』でも水割りにはこの湧き出る井戸水を使っているのだそうです。ご近所の人はもとより、下馬のお茶の先生も正月の初釜に欠かせないのがこの井戸水とか。また渋谷の喫茶店でも毎朝お水をいただきに来るのが、店主の日課になっているそうです。 宮司の西山さんのお話によれば、「信仰心がないというか、境内で物を食べ、平気で残り物を捨てていく人が時折いらっしゃいます。ここ1、2年大切な霊水が境内の汚れからか、大腸菌が検出されました。生水ではなく、一度沸騰し殺菌してからお使いください。この稲荷は江戸時代の随筆集にも掲載されている霊験あらたかな『子育て稲荷』として池上や町田、遠く埼玉の大宮、北海道からも参拝者がいらっしゃいます」ということです。 9月13、14日の秋祭りの立役者、1トンもある黒神輿は氏子の心をわかせます。 今、我が街として自慢できるものの少ない中で、古き時代から庶民の憩いの場であったこの稲荷神社や美味しい井戸水は、大切にしたいものです。 |
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「魚の釣れる」枝豆 ― 里見クが歩いた田園 ―
作家・里見クが15歳の時に学習院の校友誌に書いた『天幕行』という作文がある。華族・上流階級の同級生6人が車夫にテントとキャンプ用具を曳かせて青山から狛江に至り、多摩川河畔で野営をした話だ。 「喜多見を越えて狛戸村(原文のママ)の和泉と云う所で多摩川に出逢います。畑の一筋道を抜けると「一膳めし」の2階立てがある。川狩りの案内などと書いて、煤けた爐の上の箙には、二串三串の鮎が差してある。小石に固めた道は河原の上を馳せ、川と併行して渡場の旗竿が立っている辺りで見えなくなる」とある。渋谷で荷車、牛車、最後の駄菓子屋に別れては、満目悉く青く、世田谷の街道を外れると又青田です、と風景のみで人・人家の描写はない。 ちょうど百十年前の1893年7月2日の風景である。1889年の村制施行時に約2千人の狛江村も、1970年に市となり、現在は7万5千人、世帯数は3万6千。市の面積は6・36平方キロメートル、全国で3番目に小さい。 20年前に私が住みついた頃は陸稲や小麦の畑が点在し、季節なりに緑や黄金色の波のうねりを見せていたが、それらの大部分が宅地と化した。 2002年1月の狛江の農地面積は約57ヘクタールで、農家総数は159戸(2000年)。鉢もの類が31.4%、こまつな、ほうれん草、枝豆、キャベツの順となっている。 ある時、六本木の某所へ枝豆を手土産にすると、隣の鮨店にお裾分けされた。「こんな枝豆は初めてだ」と切り落としの刺身の返礼があった。以来、枝豆で魚を釣っている。 JAマインズや個人販売所の枝豆を是非1度お試しあれ。 また青臭いトマトを懐かしがる遠来の客もある。とれたての新鮮野菜を入手できる市民は幸せだ。狛江の農業は健気に生きている。 |
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私鉄沿線人情通り ― ユニークな店主がそろう ―
〈寿司清〉最初に訪ねたのは駅から右に行く栄通りの寿司清さん。女将のゆきさんは、「店を始めて30年。今は景気が悪くて。でも常連さんが来てくれるので何とかやっています」と話してくれました。(この店の造作は30年前、分会の青木勲さんが手掛けました。) 〈笹屋〉2軒目に訪ねたのは焼き鳥やの笹屋さん。ママさんのユニークな応対で楽しいお店です。「焼き鳥が大きくておいしいのよ」と高橋さん。店内には『下ネタネギ』、『愚痴こぼし』“時価”の札が貼ってあり、下ネタや愚痴ばかり言うお客さんの前に貯金箱を置き、罰金を貰うそうです。(この店の造作は高橋さんのご主人が手掛けました。) 〈肉のサトウ〉駅の左側を行くと右側に肉のサトウ・魚沼畜産の間口の広い店があります。毎週火曜日限定の牛レバー刺しは新鮮と定評です。以前は芝浦の東京食肉市場で屠殺したその日に届いたので超新鮮だったが、今は狂牛病の検査後に届くので絶対安全だそうです。広木分会長推薦のレバー刺しです。 〈(株)オカノ〉肉のサトウの先にある(株)カオノは組合員さんの店です。塗装業ですが、3年前から建築用“炭パワー(生活雑臭を取る)”を扱っています。他にも環境にやさしい商品を販売していますので立ち寄ってください。 駅からまっすぐの「長崎銀座通り」には昔ながらのお店が並んでいます。そこにある園田靴店の先代は消費税導入当時、全国小売業団体の役員をしていて消費税に反対して闘った方です。 長崎銀座通りを左側に曲がるとすぐにレストランセヴィアンがあります。手軽な料金でフランス料理が味わえます。分会主婦の会でも利用させてもらっています。 商店街では年4回のドッキリ市や8月のカラオケ大会、中元、年末大売出しを開催し、地元のお客さんに喜んでもらおうと工夫しています。一度おでかけになってみては…。 |
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時を感じさせる銭湯 ― 人別帳にはない「よしわら」 ―
吉原への入口は一つだけしかなく、誰もかれもが同じ道を通っていった。 写真の建物は、その趣だけで「時」そのものを感じさせる一つだ。実は銭湯で、いまだに現役…台東区は三ノ輪で今日も庶民の疲れをいやしている。この銭湯を真っ直ぐに出ると、かの「吉原大門」の交差点が左手に出てくる。その昔、「五十間坂」と呼ばれた小さな道路を越えて一本目を右手に行くと左角、我らが誇り「東京土建台東支部」がある。もちろん、支部事務所その物も、あたりに馴染んだ「趣」を発しているが、今回の話題は、ここにない。支部事務所の前にある家々の塀に視線を落すと、江戸の頃から時を刻み続ける石垣の一部が、ひっそり、静かに残っている。 当時、傾城たちが逃げ出さぬように、吉原のお堀の更に内側に、廓ごとに作られた「ドブ」の名残である。ここら辺では、「お歯黒どぶ」と呼ばれていたそうである。果たして、遊女は廓からドブを眺めては何を思い悩んだか…。綺麗なベベ着る太夫になった自分であったか、それとも、ただただ逃げ出したくなった自分であったかは、我々には知る術がない。 時の流れを感じながら、石垣の名残に、ふと想いを馳せてみた。ぼちぼちと引き継いだ業務に疲れていたせいだろうか…。ボスが声を掛けてきた。事務所の窓から石垣を眺める新任には声を掛ける、そんな習慣が台東支部にはあるのだとか、ないのだとか…。 |
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「こづかっぱら」散策 ― 刑場から歴史を探る ―
江戸文化の艶やかな花街だった浅草。艶やかなさきには罪人を処刑する小塚原処刑場があった。地元の人は「こづかっぱら」と呼ぶ。 場所は荒川区南千住駅前の常磐線と日比谷線に囲まれた延命寺、首切り地蔵尊を奉っている。 当時、陸羽街道(日光街道)は浅草を過ぎるとそこは荒れはてた野原、夜になると野犬が屍肉を探しての遠吠えが闇夜に響いたという。小塚原処刑場は間口60間(約108m)、奥行き30間(約60m)。この囲いのなかで武士は「死罪」「斬罪」「切腹」庶民は「はりつけ」「火あぶり」などで処刑された。明治6年7月1日に廃止されるまで、20万人余が処刑された。 そのなかの1人が鼠小僧次郎吉。鼠小僧は今の悪政に地団駄踏んでいることだろう。 歴史で忘れてならないのはここが日本近代医学の発祥地。幕府の目を盗んで「腑分け」をおこなったのが杉田玄白、前野良沢らの蘭学医学者。のちに「解体新書」に記されたことはおなじみ。 江戸には3つの刑場があった。品川の鈴ケ森と板橋と、すべて街道はずれにあった。 小塚原刑場は鉄道敷設とともに跡地は不明となり、首切地蔵尊(延命寺)が跡を継いでいる。 この地域一帯は別名「コツ通り」ともいう。かの吉田松陰が「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と辞世を残して斬首され、墓があるのは延命寺と常磐線を狭んである小塚原回向院。尊王の志士の墓もあり線香が絶えない。 延命寺には馬頭観音もある。街道で息を引きとった馬も供養したことであろう。その横にペットの供養塔も安置してあり、「永遠の幸せを祈り楽しく過ごした 日々を忘れず」と記されている。 |
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童謡を生んだ古里 ― 脚光あびたのは震災後 ―
八王子市郊外恩方村出身の中村雨紅は、師範学校に進み、休暇の度に八王子駅から約8キロメートルの道を歩いて帰りました。 卒業後、日暮里第3小学校に赴任し、その頃発売された童謡雑誌「赤い鳥」に感動した雨紅は、子供たちに童謡をとりいれたらと考え、自らも、恩方の夕焼け風景を「夕焼け小焼け」と題し、投稿すると草川信が作曲し発表されました。 しかし、先輩作詞家たちからは「小焼け」は意味が通じない、1番で「鴉と一緒に帰る」は子供の視点。それに対して2番の「子供が帰った後」は大人の視点となっていて、混合して一つの歌を作るのは、作詞の道から外れると、さんざん責められることになった。 発表から1カ月後に、関東大震災が起こった 子供が帰ったあとからは 丸い大きなお月様 小鳥が夢を見る頃は 空にはキラキラ金の星 身内のものは死んでも大きな月になって見ていてくれる、天国にやすらかにねむり、キラキラ星になって光り輝いていると、解釈し口ずさむようになり、焼け跡の中から僅かに残った譜面を探し出し、レコードを売り出し、ラジオでも放送されると、「小焼け」も「視点」に関係なく爆発的に唄われました。 教師である雨紅は沈黙し、生徒にも知られずに10年が過ぎ、戦後、小学校教科書に採用され、雨紅の名が多くの人に知られるようになり、生家の宮尾神社の境内に碑が建立されたのをはじめに、恩方の寺に鐘つき堂と碑が多く建ちモデル争いとなりました。 八王子市でも、夕焼け小焼けの里として、広い体験農業と花樹園、キャンプ場などと記念館を作り、雨紅を紹介すると共に同じ恩方出身の風景写真家の前田真三の作品をかざり、多くの人が訪れるようになりました。宿泊施設では日帰り入浴も出来ます。 |
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秋に黄金色の実り ― 発展した町田地区にも ―
【町田・木工・篠木正衛記】 町田市は都心から約30キロメートルのところにあり、人口は39万人余。神奈川県相模原市とは境川をはさんで向かい合っている、東京都の最南端の街です。 奈良・平安時代の武蔵野の内部は未開拓でしたが、大和政権により帰化人が多数入植して来ました。戦乱の後にこの地が豊かになると、皇族を祖先に持つ人々が来住して、大きな庄屋となったようです。今でもその名残のように、豪族のお屋敷あとが美術館として残っています。 鶴川駅前の広大な私邸を美術館として提供し、公開している香久山美術館。この地の豪族、神蔵家のものです。テレビ時代劇の撮影場所に提供したこともありました。 府中の国府に近い町田地域は鎌倉街道などが発達し、戦国時代には寺・神社・民家がいくさによって焼かれました。 太平洋戦争には多大な被害を受けなかったものの、軍事基地の建設のために土地の接収や、学童の集団疎開先となりました。 戦後の町田は急激な都市化と大型団地の建設が続きました。東京の中で、八王子につぐ人口急増の市になりました。 しかし、北西部の丘陵には緑がゆたかに残り、鶴見川や境川の源流があります。丘に囲まれた窪地には武蔵野のおもかげをつたえてくれる小川が流れ、両岸にたんぼがつづきます。中心地の町並みから一変して広いたんぼや畑をみわたすとホッとします。ここ小山田緑地には秋に実りの稲架の波が見られます。 昔から宿駅のあった町田は明治41年に横浜線が開通し、その後も小田急線、田園都市線、京王相模線が開通。国道16号線、246号線、東名高速道路もできて、武相の十字路といわれています。 交通網の集中している町田市の中心部は、商業が盛んで、近隣の都市からも買い物に訪れる人々で賑わい、土曜、日曜、祝日はお祭りのようです。 |
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建物文化の香り残す ― 高橋是清暗殺の部屋も ―
JR武蔵小金井駅下車、北口のバスロータリー2番のバスに乗り、5分ほどで小金井公園西バス停。ここで降りると目の前が都立小金井公園です。 敷地面積77ヘクタールという広い公園。この小金井公園の中にある。江戸東京たてもの園(面積7ヘクタール)は、東京の文化を将来にまで伝えていくことを目的とした博物館です。 「たてもの園」内には、27の建造物や屋外展示物があります。園内は下町、山の手、樹林ゾーンがあり、小金井公園全体との調和もとれた景観は美しく、楽しく、興味深く周遊できます。1日ではとても見切れません。 1番古い江戸中期の綱島家(農家)から、昭和初期の小寺醤油店等のたてものが移築されています。 特に強くひかれたのは、明治35年(1902)に建築された日銀総裁、高橋是清邸です。昭和11年の2・26時件で高橋是清が、暗殺された2階の部屋が当時のままになっていたことです。また展示室には火の見やぐらの上部、郵便局、交番も当時のまま展示されております。 1993年(平成5年)に東京に建っていた大切な建物をもとあった場所から運び、できるだけ元の通りに直して当時の生活もあわせて展示しています。広大な敷地の小金井公園だから可能な移築でした。 園内では、毎月催しものや「縄文土器を作ろう」などの体験も出来ます。春、玉川上水沿いに咲き誇る約2000本の桜は、江戸時代から有名です。1ヶ月間にわたり咲き乱れます。 年に数回の建築展では江戸時代から昭和初期の建築が緑の中によみがえります。建築業者、特に大工さんにはぜひ見学していただきたいです。 毎週月曜日は休館。観覧料一般400円、65歳以上200円、中高生以下200円 |
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24間の通りが2km ― 軽井沢便の滑走路だった ―
中央線の高尾までの駅間で、ただ1つパチンコ屋、キャバレー、映画館のない町。東京で2番目に小さい市、国立。 と書き出すと田舎町のイメージだが、南口に降り立つと24間幅の広い道路が2キロメートルも続く。そして桜並木。 この道路、建設時は軽井沢との定期便の滑走路で“箱根土地”の所有地であった。後に両側7米幅の桜並木を残して、三角屋根の駅舎と共に国へ寄付された。左右の放射線と併せてヨーロッパの町並みを思わせる画廊と喫茶店の多い、おしゃれで文化人好みの町も大正末期に100万坪に及ぶ谷保村の山林を開発して出来た学園とお屋敷の町です。 反面、南武線に沿った南側の谷保地区は、関東で最も古い谷保天満宮、道真の三男が纏られた三田屋敷(城山)、知的障害者養護施設として日本で最初に開設された、滝の川学園、14世紀、物外可什禅師開山の南養寺など、古い歴史を持つ建築物も多い。 神社や仏閣は山の上に建っているのが常識だが、谷保の天神さまは石段を下った谷底に本殿があり、甲州街道に建つ一の鳥居から見ると、これが関東三大天神かと目を疑うが、一歩足を踏み入れると境内は広く、宝物殿には国の重要文化財など多く納められている。 滝の川学園は明治24年、石井亮一が津田梅子、勝海舟、渋沢榮一など多くの支援者に支えられて創立した知的障害者の教育と福祉の学園だ。 日本に現存する最古のアップライトのピアノ(立派に演奏できる)や国登録文化財の本館、チャペルなど申し込めば案内してくれます。 国立駅から滝の川学園まで約6キロメートルを半日かけてユックリと歩いてみませんか。 |
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草餅と梅林で有名 ― 三大横丁のひとつ ―
幕末の頃、堀之内の妙法寺が厄除けの祖師として名が高くなると、淀橋から堀之内までの道筋は老若男女の参詣人で賑い、商家や料亭が軒を連ねていた。その中でも、現在の本町4丁目附近に店を構えた『鍋屋』が地の利も手伝ってひときわ繁盛。この鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに庭の2百数十株の梅林であり、早春は梅が香芳しく文人墨客も去ることを忘れ、鶯の声も法華経をとなえるかのように聞こえたという。 この頃からこの附近を『鍋屋横丁』と呼ぶようになった。 渋谷の恋文横町、品川の青物横丁と並び東京の3大横丁の1つとして名高い所です。 北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へ通じる道が青梅街道から分かれているところで、今も東京三菱銀行の前には道標があります。 現在は8月になると『鍋横夏まつり』がおこなわれ、鍋屋横丁から十貫坂上にかけ歩行者天国・阿波踊り・大道芸・模擬店等が出て、大勢の人びとで賑わっています。 十貫坂は、杉並区和田1丁目から中野通りへ向かう100メートル余りの上り坂を『十貫坂』と呼んでいてその坂を上ると『十貫坂上』で中野通りと交差する地点を渡ったところが、鍋屋横丁です。 この坂の由来については、いろいろな中野長者伝説があります。18世紀半ば、村のわきの畑のあぜから壷に入った古銭十貫文が掘り出され、これを坂の名前にした。『成願寺縁起』によると、長者がこの坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買った。他にも財宝を埋めた。などの由来があります。 以前からひったくり等が多発する場所で現在も注意の看板があります。 |
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一日で遊べない ― 出前サイエンスショーも ―
東武東上線のローカル電車に乗り6つ目、上板橋駅北口に出て駅前通りを右に2分ほど歩くとそこに板橋教育科学館があります。 板橋教育科学館は昭和63年9月に総建設経費26億円を投じて、区が住民の科学に関する知識の普及と学校教育の一層の充実及び振興を図る事を目的として設立されました。 プラネタリウムからパソコンまであり、科学の分野は非常に範囲が広く生活全般に関係しています。また、科学だけでなく昨年、教科書問題の時に私は当館で本を借りて読んできました。 子供から大人まで楽しく遊んで学べるように、四季それぞれにプログラムが工夫されています。 また、ときどきには、出前サイエンスショーがあり、科学工作、ソーラーカーの試乗会、等々も出張してもらうことができます。 プラネタリウム投影は地下1階で、8月は「銀河鉄道999」特集。9月は「しまじろう星空大冒険」を始め、日変りでいろいろやっています。無料と有料(大人300円、小人100)がありますので気をつけてください。 今年の夏の特集は“メカと不思議のサイエンス”“からくり今昔物語”と題してからくりアート、工房、歴史と遊んで学ぼうという企画がおこなわれています。 とても一日では遊びきれない科学教育館です。子どもさんやお孫さんとお出かけしてはどうでしょうか。 |
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あるきたくなる ― 豊かな自然と町づくり ―
あきる野市は、平成7年9月1日に、秋川市と五日市町が合併し、豊かな自然と発展の可能性を秘めた新しい街として誕生しました。 あきる野市のキャッチフレーズは「あるきたくなる街あきる野」です。自然、歴史、文化のある観光の街と、市街地づくりの進む商業の街の二つがあります。 JR秋川駅周辺が市の顔として「原宿駅」を模して建替えられ、同時に線路を跨いだ南北通路も併設されたので、大型店舗である東急ストアーをはじめ金融機関、各種商店などへの利便がはかられました、駅前広場から北に伸るメイン道路は、電柱が一本もないので景観が開け気持をなごませてくれます。 文化とコミニティーの育成と産業振興をめざす、複合施設「ルピア」音楽の演奏を主な目的に作られたホールで音響の良さで数多く利用されている「音楽の殿堂」キララホールなどもあり、此れらの施設を利用する愛好者も多いとのことです。また、市民生活に欠かすことの出来ない水道の貯水塔も2基設けられ、それらを取囲むかの様に区画された住宅地には、現代風の家々が軒をつらねています。 圏央道、また、それへの連絡道路の新設などもあり、将来はモノレールの延伸なども計画されそれらの利用などと相俟って発展が見込まれる街へと変貌をとげました。 縄文、古墳時代から人類の生活の場であったとの昔日の面影は、過去の遺物として人々から忘れ去られた。これら慣れ親んできたものへの郷愁が胸をよぎる今日です。 |
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新撰組のふるさと ― 「誠」に盛大なパレードも ―
新撰組の浪士として有名な土方歳三は、天保6年(1835)武州多摩郡石田村(現在の日野市石田)に生まれました。現在、歳三の生家は資料館として一般に公開されています。市内には他にも多くの新撰組にゆかりのある史跡があり日野支部にも土方歳三とゆかりのある組合員もいます。 特に注目されるのは、毎年市をあげて行われる「新撰組まつり」です。今年で第5回目を迎えた同まつりは、日野中央公園をメイン会場に5月11、12日の2日間に渡っておこなわれ、会場内では新撰組コンテストやフリーマーケットなどに多くの観光客が訪れました。会場の外でも、関東3大不動の一つとして有名な高幡不動尊を出発地点に会場までを浅黄色の地に袖口を白のだんだらに染め抜いた揃いの隊服で行進する「新撰組パレード」は誠に盛大です。 前述のパレード出発地点となった高幡不動尊も新撰組とかかわりが深く、不動堂北側には近藤勇、土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」があります。これは、近藤、土方らの親戚知己門人らによって明治21年に建立されたものです。 また境内には、国指定重要文化財の仁王門、不動堂、本尊不動明王及び二童子像、高幡不動本尊像内文書などの数多くの寺宝とともに歳三の立像もあります。 高幡不動尊は京王線高幡駅を下車して右手に参道を行ってすぐの所にあり、駅から近く、駐車場もあり便利です。 この他、日野市内には、土方歳三の墓がある石田寺や7月21日の住宅デーの会場にもなる八坂神社には佐藤道場の天然理心流剣士たちが剣術の上達を願って奉納した額があります。(非公開) |
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都心に豊かな森 ― 境内に縄文式住居も ―
小田急線、代々木八幡駅から歩いて4、5分のところに、ながい歴史と豊かな樹木に囲まれた「代々木八幡」があり、別世界に足を踏み入れたように感じる。 いかにも神々しい森に祭られている、800年近い歴史をひめている神社だ。 御神殿には「恒仁天皇と天照大神」が祀られ人々の信仰を集めている。立派な神社で参拝する人々が絶えないという。五色の鈴の尾をふり、一心に拝む方々は何を願っているのだろうか。 奉納されている絵馬をチョット覗いてみると、ほとんどが合格祈願。中には両親の長寿を願ったものがあった。祈願したのは娘さんと思われる。ご両親は思われるだけでも幸せだろう。 代々木八幡も現代風なのか幾つかの神様が同居されている。本殿のほかに榛名社、近くの村々から集められる出世稲荷が広い敷地に競うように並んでいる。 代々木八幡の社務所は作家平岩弓枝さんの実家という。現在の宮司、平岩昌利さんは娘婿。 標高32メートルの境内には縄文住居跡もある。この遺跡は昭和25年、近くの上原中学校の生徒さんたちによって発掘され、縄文早期の茅山式や前期の黒浜式など、ぞくぞくと土器が完全な形で発見されたという。社殿のある高台が当時の入り江になっていたのだという。 境内には天保12(1841)年に奉納された立派な絵馬や1トンもあるという宮神輿などもある。 ひとそれぞれに神様についての想いはあるだろうが、1度行ってみる価値がある。 ※この記事は教宣活動者会議で体験取材したものです。 |
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練馬が誇る自然の宝 ― カタクリ30万本の自生地 ―
練馬区大泉町の白子川流域にある斜面の林に、当時多摩地方でその保護が叫ばれていたカタクリが自生していることがわかり、練馬区でさっそく調査したところ、翌年2月の新芽が出たことで確認されました。 大泉町の「くぬぎ」や「こなら」、「しで」などの落葉樹の林には、以前はカタクリが数百万本群生したと、地元では言い伝えられています。宅地のために多くの自生地の林が造成されてしまい、今はこの群生地が残っているだけです。 大泉町1丁目の清水山憩いの森として、区が私有地のこの林を借り受け管理しています。私有地のため公園の「カタクリ山」の総面積は公表されていませんが、区の調査では、約30万本から35万本と案内人の方が話してくれました。 毎年花は咲きますが、カタクリの花は1年おきに咲くため年に15万本から17七万本がかれんな花を咲かせます。花を咲かせる芽は全て2枚葉で発芽し、片葉の芽はその年は咲きません。 またカタクリは、花が落ちると種の実が付き、4月末から5月上旬に種が落ち、翌年発芽してから7、8年目に初めて花を咲かせ、20数年生息します。 現在これだけの群生地は関東近県ではありません。練馬区は遺跡や文化財であまり有名なものはありませんが、このカタクリの群生地は他に類を見ない貴重な自然の宝として、日本全国に誇れる特別天然記念物に指定されています。 |
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最初に盆踊り ― 下町の心が通う商店街 ―
荒川区内にはいくつかの商店街があります。今回は荒川3丁目の仲町通り商店街を訪ねました。 JR常盤線三河島駅の改札口を出ると尾竹橋通りに出ます。駅から宮地交差点に向って約70m行き、斜め右に入ると左側に宮地稲荷があり、その手前の右側に「仲町通り商店街」入口があります。大正の末頃に開かれた商店街で、道幅約4・5mの一方通行、延長約500メートルです。 食料品を扱う店が多く、安くて新鮮な品を選べるので、少し離れたところからも多勢お客が集ることで区内でも有名です。
この商店街で半世紀以上米店を営業している中村弘さんにその歴史について語ってもらいました。 「この商店街は、戦前からありました。終戦後は昭和27年に始まり、花屋の北条さんが中心で振興組合をつくって、北条さんはその初代理事長でした。私は2代目。9年やって7年前に大病したので辞めました。一時期は、夕方4時ごろになると客がごった返し、スリも出たんです。千葉や埼玉あたりからも買いに来てくれました。大売出しの時には、福引だけで200万円もかけたこともあったんですよ。私が理事長をしている時にはテレビが入り、毒蝮三太夫も来て、それなりに宣伝効果はありました。荒川で最初に盆踊りをやったのもこの商店街です。」 大型店の出店で商店街もかつてのにぎわいはなくなりましたが、下町の心が通う商店街です。1度行って見てはどうですか。 |
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洪水と治水を知る ― 花見や家族で散歩にも ―
荒川と新河岸川にはさまれたところ(北区志茂5丁目)に「荒川知水資料館」が1998年3月に設立されました。そこには、荒川についての情報が満積されています。 もともとは、現在の隅田川が荒川だったそうで、沿川はたびたび洪水の被害に見舞われていて、特に明治43年(1916年)には、岩渕、王子、日暮里から千住、浅草から亀戸まで、見渡す限り泥の海となったそうです。浸水戸数約27万戸、被災者約156万人、被害総額は当時の国民総所得の約4%に達したといわれています。 この洪水をきっかけに、翌年隅田川沿川の治水対策として北区の岩渕から中川の河口に向けて、長さ約22キロメートル幅500メートルの人工の放水路を開削することになりました。工事は20年もの歳月を要し、のべ310万人もの人が働き、昭和5年(1930年)に完成したのが現在の荒川下流部というのですから驚きです。 「資料館」は、地域について学ぶ絶好の社会科見学コースです。岩渕水門の説明や荒川についてのビデオ鑑賞などは予約が必要だそうですが、館内は、荒川の一番新しい表情に出会うフロア・交流を深めるコーナー、水槽コーナー(荒川に生息する魚が集められている)、書籍や文書、ビデオの企画展示コーナーなど他にもたくさんあり、結構楽しく時間が過ごせます。「資料館」のそばは、春になると桜が満開になり花見客でいっぱいになります。岩渕水門や散歩道、バーベキュー広場もあります。お子様連れ、ご夫婦、アベック、どなたものんびり楽しめるところです。 |
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心に杭は打たれまじ ― 基地拡張反対から返還へ ―
立川市には、緑の回復と人間性の向上をテーマとする国営昭和記念公園があります。 園内には春梅の花から始まり、桜はなんと言っても見事です。夜桜はライトアップされ夜空に白雲のようにひろがり、いにしえの世界に誘われます。記念公園になる以前、大正11年11月に陸軍飛行第五大隊の基地として発足しました。その後立川飛行場は民間飛行場としても利用され、昭和4年には立川‐大阪間日本で最初の定期航空が始められましたが、やがて軍事基地に一本化され、立川も「軍都」と呼ばれるようになりました。 昭和20年太平洋戦争が終ると、アメリカ軍の基地として利用され、町もアメリカ兵相手の商店が多く目につくようになってゆきました。 昭和30年基地拡張反対の砂川闘争ががはじまり、この土地は将来日本のため子供のために渡すことはできない、守らなければと、地元の人々と警察隊との衝突がつづきました。そして昭和43年長いたたかいは滑走路拡張計画中止、44年には飛行停止となり、30年間基地の町として歩んできた立川基地は、昭和52年日本へ全面返還されました。 返還され飛行場跡地は国営昭和記念公園として昭和58年開園しました。広域防災基地、業務市街地としても利用されています。 「畑に杭は打たれども 心に杭は打たれまじ」 の名言をのこした地元の反対闘争がなかったら、この美しい木々の緑の中から鳥のさえずりを聞くこともなかったことでしょう。 |
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「雨水」は天水
墨田区内にいま小さなダムがどんどんできている。路地には路地尊、家庭の軒先には天水尊というダム。お寺の裏庭、市役所や国技館には雨水タンクダムがある。墨田区内になぜダムが出来るようになったのだろうか。 昭和57年頃から墨田区内はコンクリート化が進み豪雨になると下水道から下水が逆流して都市型洪水が起きるようになった。一方、夏になると水不足に悩まされるようになった。この悪循環を逆転させて環境循環に変えた。 簡単にいうなら屋根に降った雨を溜めれば洪水防止につながるとともに、自前の水源(ダム)としてトイレの水、植木の水、洗車、消化用水、非常時の飲み水、大型施設では冷房用冷却水にまで使える。まさに「雨水」は天水なのだ。 墨田区では「雨水利用促進助成制度」をつくり雨水タンクを設置する方に助成をおこなっている。これは公共の無駄ダムではなく区民のための公共ダムづくりだ。 さらに墨田区は今年の5月に「すみだ環境ふれあい館」をオーブンさせた。ここでは世界初の「雨水資料館」も設置されている。スリランカで実際に使われている雨水タンクや世界各地で起こった渇水と洪水を原因とした水の危機管理の雨水利用の推進例が展示されている。 館内には環境工作教室、交流スペース、時間の部屋、起源の部屋、循環の部屋などがある。人間は自然の循環のなかでしか生きられないしくみが良くわかるようになっている。 親子でも楽しめ内容になっているので足を運んでみる価値があります。 |
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人情路地の街 ― 金八先生、撮影地域 ―
揺れ動く少年期を題材にしていることが長寿番組となっているのではないだろうか。もちろん武田鉄也の好演も。 一方で番組をささえているのは人間味豊かな下町模様ではないだろうか。この撮影地は足立区北千住の柳原地域。東京土建のエリアでいえば足立支部柳原分会となる。室外の95%はこの地域で撮影されているとのこと。 この地で生まれた早乙女勝元は自伝的小説「わが街角」で「見わたすかぎり人家の屋根が密集している/ネギ1本塩1皿この長屋では借りたり貸したりは毎度のこと」と描いている。下町風情が残っている街だ。 柳原地域は路地の街。初めての人はおろか近所の人でも道に迷う。路地にはそこかしこに生活があふれ、人の優しさ温もりが生きている。 夕方には豆腐屋さんのラッパの音、幅2m位の商店街にスーパー袋は似合わない。鰻屋のオジさんに道を聞けば連れて行ってくれる。 金八先生のオープニングで生徒が登校する土手は荒川土手。下町の自然の宝庫でもある。テレビに良く出るガードは東武伊勢崎線の牛田駅の近く。1.8メートルの高さなのに背を丸くして通るから面白い。 コミュニケーションが無くなってきた都会生活。懐かしき下町散策にどうですか。運がよければ金八先生の撮影にであえるかも。帰りには「もんじゃ」で仕上げては。 |
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旧東海道一の ― 当時の面影残す町並が ― 今春東海道400年祭が、旧街道の、商店街、各町会で盛大に催されました。現在は、八ツ山橋が起点になっていました。工事中のため名残りは感じませんでした。 品川宿は、北品川商店街となっている。次に品川橋を渡り青物横町へと、江戸時代は品川寺の門前町屋で東海道に面したところを観音前といい、池上道に面したところに青物市場があったので、青物横町と地元で呼んでいたそうです。品川橋は東海道五十三次一の宿として海が近く漁業も栄え、神社仏閣が多く今も当時の面影がしのばれます。旧街道に北品川と南品川の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には、境橋とか、行合(ゆきあい)橋、中の橋とも呼ばれたそうです。次は鮫洲商店街です。途中、水洗処、お休み処とけっこう昔の面影が残っていました。立会川にいたり、浜川橋へ立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川と名付たそうです。徳川家康が江戸入府の1600年頃、浜川橋は、涙橋とも呼んでいたそうです。慶安4年(1651年)。 品川にお仕置場(鈴ケ森刑場)が設けられ、親族が密に見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから涙橋と呼んだそうです。当地は東海道に面し鈴ケ森刑場、遺跡です。 丸橋忠弥、平井権八、八百屋お七、等の処刑地としても有名です。境内には、処刑に使用された、台石や、井戸、供養塔も点在し、品川百景にも指定され、江戸刑制史上重要な文化遺跡となっています。 |
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八王子に戦国の城が ― 歩くと先人の気持になる ― 戦国時代の城は自然の地形を利用した山城が一般的で、敵の進入を防ぐ曲輪(くるわ)をめぐらし、要所に配置した出城からの情報を得られるようになっています。氏照は小田原城が秀吉に責められていたとき小田原にいました。そのため八王子城は6月23日1日で落城しました。小田原が落ちた後氏照は秀吉に切腹させられました。領地は立入り禁止となり、江戸時代は幕府の直轄地として保護されてきました。 史跡の面積は154万平方メートルもありますが、八王子市は6年かけて整備し90年に完成しました。JR高尾駅からハイキングコースとして整備されています。30分くらいで宗関寺に着き、まもなく北条氏照の墓もあります。沢づたいを歩くと氏照らの住居地区にでます。そこから300メートル古道を入ると敵の侵入を防ぐ仕掛けの橋をわたり、石畳を越えたところに御主殿跡に着きます。ここは広い台地で氏照の執務した棟が大小2棟あったことが基礎石で確認されています。 少し居館地区まで戻り、いよいよ460メートルの本丸までのぼることになります。八王子市が一望できる山王台、八王子神社、もみじの大木のある松本曲輪跡などを通り、本丸を目指します。 東京にこんな大きな城跡があったと知らなかったし、所々にある説明書きなどを見ながら歩くと自然に先人の気持ちになる歴史のコースです。 この城跡、高尾山の自然を守れの運動も続いています。 |
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