雑司が谷と鬼子母神
都電荒川線鬼子母神前下車
将軍吉宗の鷹狩場  10月のお会式が見もの

【豊島・大工・磯昭三記】
 雑司が谷といえば、現在では都営雑司が谷墓地として知られています。この地は享保年間のはじめ、徳川八代将軍「吉宗」の鷹狩場があった所で、明治7年に東京市が買い上げ共同墓地となりました。今なお鷹狩の詰所跡で、お宮の松という一本松が当時を偲んで残っています。
 この墓地には多くの著名人の墓があり、日曜、祝日ともなれば、地図を片手に多くの人が散策をしているのが目につきます。
 雑司が谷という地名の由来は、「元弘・建武(南北朝時代)の頃、京都の朝廷で雑式の職をつとめた柳式若狭、長島内匠、戸張次左衛門など、南朝の衰えを嘆いて官を辞し、この地に土着し、その子孫も村民として残りました。曹司とは郡領などの身分ある人の子息をさして言うので、この地名が起きたと江戸名所記に書かれています。
 雑司が谷が地名に定められたのは、八代将軍吉宗が放鷹のためこの地に来た時「雑司が谷村と書くべし」といわれてからと伝えられています。「谷」とは、この地に池袋の丸池を水源とした弦巻川が流れ、川に沿った谷間を形成していたと考えられ、この弦巻川は、雑司が谷八景の一つにうたわれた風光を誇り、夏は蛍、秋は月の聖なる川として流域の人々の生活を支えた。弦巻川も時代の波に押し流され、昭和4年に暗渠化され、今は形跡もありません。
 弦巻川は、池袋西口公園よりビックリガードを越え、明治通りを千歳橋に向かい途中左折。東京音大前、大鳥神社前より雑司が谷二丁目商店街を経て音羽通りを東に向かい、江戸川橋より神田川に注いでいました。
 弦巻川とは、源頼家が奥州凱陣の帰路、この川で弓の弦を巻いたということから弦巻川と名づけられたといい、現在では、弦巻通りとして親しまれています。
 雑司が谷で有名なのが、10月16日〜18日に行なわれる鬼子母神のお会式です。江戸時代より庶民に親しまれてきた豊島区内で数少ない伝統行事の一つです。