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源氏が尊崇の武神 善福寺池に「遅野井」の碑 線路脇に地名の由来[荻]が見られる荻窪駅、昔は一面に[荻]が茂る窪地でした。 駅前の青梅街道は江戸城増築の為、青梅の成木村より漆喰(石灰)を運ぶ道として作られ、当時は成木街道と呼ばれていました。西に下った街道沿いに井草八幡宮の高さ約9mの鳥居が見えます。 5年に一度、秋の祭礼で「流鏑馬」(やぶさめ)の神事が行なわれ、静かな社は人々でにぎわいます。1186年、源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の際、戦勝祈願に立ち寄り、また、奥州平定後、報賽として雌雄2本の松を手植したと伝えられています。 雌松(赤松)は明治初年に、雄松(黒松)は昭和46年に枯れてしまいました。現在、社殿前に植えられているのは二代目です。「頼朝公お手植えの松」は衝立に姿を変えて回廊内に保管されています。 源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇々谷上杉家の執事大田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。広さ約1万坪を誇る社の周辺は、深い森と豊富な湧水により大昔より人々の生活の場でした。境内及び周辺からも縄文時代中期4000年まえの住居跡や土器が発見されています。 境内をぬけて南へ下ると善福寺公園に出ます。上池と下池からなる公園の上池は、今冬のきびしさに南下した白鳥が降りたち、散歩をする人の目を楽しませてくれました。 この池のほとりに「遅野井」の碑があります。頼朝公が奥州征討を無事に終え戻った折、干ばつで渇きに苦しむ兵を見て弁財天に祈り、弓で地面を掘りました。 しかしあまりにも水の湧き出しが遅いことから、この地を「遅野井」と名付づました。八幡宮は明治時代まで遅野井八幡宮と呼ばれていたのです。そして、この井水が善福寺池の源泉となったと伝えられています。池を源とする善福寺川、その流域は緑地公園として都内でも有数の桜の名所となっています。 |