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かっぱ伝説残る ― 新線開通し活気戻る ― 台東区松が谷は、もと『松葉町』といい、江戸が東京になったと同時に誕生して約120年になる。当時の名前『松葉町』が松が谷になったのは昭和40年8月住居表示の実施によって改称された。名称は変わっても松葉町会という名称はそのままに残った。 徳川三代将軍家光の頃は広沢新田と呼ばれていた。その頃に京都と同じ三十三間堂を建立。寛永二年に吉田出雲守という人が弓の試射式をおこなって以来、弓道の道場として発展したという。それも元禄11年9月に焼失してしまい、残っているのは当時三十三間堂の守り神として祀られたお稲荷様の矢先稲荷神社ぐらいである。 さらに松が谷にはお寺がとても多く、幕末の有名人の墓所になっているお寺が何寺もある。今でも江戸時代から名のある火消し、新門一家の末裔が同じとび職として住んでいたり、「かっぱ」の手を何時でも見せてくれる曹源寺(かっぱ寺)もある。源空寺には江戸初期の町奴「幡随院長兵衛」の墓、江戸後期の文人画家「谷文晁」「伊能忠敬」の墓等もある。 また道具街の一つ裏通りを歩くとお菓子の型を彫っている職人、菓子箱を造っている職人等まだまだ各職人の住んでいる町だ。 合羽橋道具街もたいていの道具なら手にはいるということで客足の絶えることはないが、やはりこの不況でお店の入れ替わりも多いようだ。しかし去年から筑波エキスプレス鉄道が開通して、浅草界隈の人出もだいぶ多くなってきた様で、地元にとって大変良い傾向のようだ。 そしてもう一つ、国際通りから道具街に抜ける「かっぱ通り入り口アーチ」の看板は台東支部の田中憲治さんの手づくり作品。「なかなかのできだ、わざわざ見にきても、損はないとはちょっと褒めすぎかな」。 田中さんは、浅草のことなら何でもわかる地図や月刊『ん!?浅草』なんてのも編集しているきっすいの浅草っ子。まだまだ路地裏が面白い浅草「松が谷」の界隈だ。 |