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東海道の面影残す ― 歴史を見つめた品川宿 ― 品川というと、江戸の昔、東海道最初の宿場が置かれて以来、発展した「品川宿」がありました。北品川一丁目の品海公園には「日本橋より二里」と書かれた碑が立っています。また江戸時代の東海道は、品川に入ると、海岸側は下り坂で、いくつもの横町を形づくっていった。 その昔、北品川一丁目までは遊郭がたちなび、江戸っ子からは「みなみ」とよばれていて、現在でもその面影が少し残る町並みがあります。ちなみに「きた」は吉原とか。 幕府は、浦賀にペリー艦隊来航を機に、江戸を守るため、江川太郎左衛門の指揮のもと、品川沖に品川台場を築造したが、その際に、陸続きの御殿山台場も完成させました。(現在の品川台場小学校)この台場へ行く横町が「台場横町」です。 浄土宗法禅寺前には品川小学校発祥の地の石碑があります。その法禅寺の前から海岸に通じる横町を「溜屋横町」と呼び、現在の品海橋に通じています。さらに、歩くと「竹屋横町」、東海道から目黒川本流(現なぎさ通り)に至る横町。そして「青物横丁」にたどりつきます。 品川寺の門前町屋で東海道に面し、観音前といい、池上通りに面した所に青物市場があったので、「青物横丁」と地元の人は呼び、明治10年に市場として許可され、現在は京浜急行の駅名で親しまれています。 このほか「くじら」をモチーフにした噴水が品川区民公園の中にあります。1798年(寛政10年)5月1日、大鯨が品川沖に迷い込み、天王洲に追い込み捕まえました。五月30日には、浜御殿の沖まで引っぱっていき、11代将軍家斉公も見学したという。 浜川橋は、別名涙橋と云われていました。この少し先に、鈴ケ森刑場跡(仕置き場)があります。1651年(慶安4年)に開設され、ここで処刑された丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは知られています。 品川は歴史の町、横丁に暮らす庶民の町。一度は散策においでください。 |