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護国寺と御陵の傍らで ― ひっそりと佇む坂のある町 ― わが街、大塚5丁目は大塚3丁目交差点(三角点が海抜高度は28・9メートルで、区内の幹線道路では最高地点である)から護国寺方向に下る右側の街で、坂を降りると右側に「豊島岡墓所」がある。 文京区教育委員会発行の「文京区史跡めぐり」によると、明治6年当時は、首都が京都から東京に移ったばかりで、皇族墓地がなく、新たに設けることになりました。たまたま護持院の廃寺であいていた護国寺の東の部分が当てられ、以来宮家・旧皇族の墓地になっています。 そしてその隣には、徳川5代将軍・綱吉が生母桂昌院の願いにより建立された「護国寺」があります。本堂は元禄10年(1697年)幕命により建立されました。徳川幕府の最盛期で将軍家の権威と財力を結集し、すぐれた棟梁、彫り師、飾り職を動員して造らせました。和様・唐様の折衷方式をとり、雄大にして華麗な元禄文化を今に見る事ができます。なお境内には仁王門、鐘楼、月光殿(桃山時代の書院建築)などがあります。 そして富士見坂の途中の信号まで戻り、左折しサンシャイン通りを行き、荒才酒店の手前を左折して行くと、左側に「大塚先儒墓所」があります。水戸藩の儒臣であった人見道生(林羅山の門人)の屋敷があったところで、彼の亡き後、屋敷内に埋葬され、その後江戸時代の儒学界に君臨した学者が葬られました。明治に入り墓域が荒廃し、大正3年に整備され東京市(都)に寄付されました。 もうひとつ由緒ある神社に「吹上稲荷神社」があります。元和年間、2代将軍秀忠によって、江戸城内吹上御殿に「東稲荷」として祀られたのが始めと言われ、祭神は保食(ほが)大明神と言います。賽銭箱の葵紋に将軍家との関りを示しています。 |