日本ウェルネススポーツ大学 佐伯年詩雄教授
「日本、最多のメダル41個」。リオ五輪フィーバーで、2020年東京大会への期待は高まっています。一方で、開催経費の膨張などに対する不安や危惧も。11月19日、エデュカス東京で東京地方自治研究集会プレ企画として「これでいいのか2020年東京オリンピック」が開催されました。当日の佐伯年詩雄日本ウェルネススポーツ大学教授の講演の一部を紹介します。(記事、見出共に責任は編集部)
身体・意志・精神の調和
五輪の原則を世界に広める
新国立競技場の建設現場(2016年12月8日撮影)
オリンピックとは、どういうものか。メディアがあまり情報を流さないものですから、オリンピック競技大会がオリンピックだと思っている人が多分、9割だと思います。本来はそうではなく、オリンピズムの根本原則という理想があるのです。
「身体・意志・精神が調和した全人格的な生き方の哲学である」「スポーツと文化教育の融合による創造的な生き方の探求である」。これがオリンピックの存在する最も根本的な理由です。このオリンピックの根本原則を世界に広めていく期間が4年間のオリンピアードです。オリンピアードに一生懸命にオリンピック原則を広め、その成果を表現するステージがオリンピック競技大会ということです。
スポーツ大会の中で至高の価値
この根本原則を広め、発展させるのでなく、簡単に言えばメダルを取ることばかりを考え4年間を過ごしているものに変わってしまったのです。これに便乗する大きな一群の人びとがいて、五輪大会を理由に訳の分からないモンスターイベントを作っているのが現状に見られる姿ではないかと思うのです。
ですから、普通のスポーツ競技大会、例えば、サッカーのワールドカップとか、いわゆる世界選手権大会は何年かに1度、世界大会をやって誰が世界で一番速いか強いかとやるわけですが、これらとオリンピックと違うところは根本原則というオリンピック理念がその大会の存在理由であるということなのです。
それによってオリンピックは特別な価値づけを得られているわけで、スポーツの中で最も至高の価値がある大会と見なされるのです。これがある故に、そしてオリンピックが古代オリンピックの平和と友好を実現するためにオリンピック期間中は戦争を放棄する伝統を持っていた。その神話を引き継いでいるために、特別な価値が付与されている大会となっているわけです。
政治権力と商業主義
金メダル獲得争いに変質
ところが、オリンピアードで何をするのかとか、オリンピック競技大会で大事にされるべきものが忘れられ、2020年は金メダル30個取るというのが具体的な目的や目標にすり替わってきてしまっている。これがオリンピックの変質を見る時の一般的な視点で、違う視点では、現代オリンピックは実はスポーツ競技大会。これは表に出ていますが、それだけが競われるイベントではないのです。隠された2つの大きなゲームがあり、1つは政治権力というポリティカルパワーゲーム。もう1つはコマーシャルゲーム。この3つがセットで現代オリンピックは存在する。
表に出てきているのは36競技、約300の種目のアスリートのスポーツ競技です。この競技でのオリンピズムの根本原則から見た時に、問題点があるわけで、例えば、覇権主義とエスノセントリズム(自民族中心主義)が非常に強く表現される大会になってしまった。友好と連帯とうたいながら、30個金メダルを取って日本は大国だと言いたいように大きく傾いています。
リオ五輪を見ながら、スポーツは怖いなと思いました。私も相当に批判的な目で見ていますが、「吉田頑張れ」となります。それは自然なことなのですが、30個の金メダルを取るのが東京大会の成功の第1目標だという組織委員会やスポーツ界がやっているようなオリンピックの現状ではスポーツの健全なナショナリズムに結び付きません。そういう恐ろしさがスポーツにはあることをスポーツ関係者は強く自覚すべきだと思います。大事なのはフェアプレーであり、スポーツマンシップ。こういうもののバランスを取れるオリンピックの主催チームになってほしい。
利用する故にサポートする
開会式の席順からポリティカルパワーゲームの問題があるわけです。開会あいさつはなぜか開催国の名士です。東京だったら都知事があいさつしてもいいのですがそうではなく、自民党が総裁任期を伸ばしましましたから、2020年は安倍(首相)があいさつをするかもしれません。この最たるものがナショナル・デリゲーション(国の代表団)。国を代表する選手団という構成なので、いくつメダルを取ったかが、その国のメダル数だという捉え方になってしまっている。
片方ではオリンピックはアスリートの個人的な名誉であって片方では選手団のメダル数=国別メダルだということになってしまっている。こういうものが政治的に利用されたり、あるいはそれ故に政治がスポーツをサポートする状況が出てきています。オリンピックの1つの側面は政治のゲームだが、その政治のゲームは世界がより平和に、より深い友好に向かっているのか、それにオリンピックは役に立っているのかが非常に重視されなければいけません。
歯ブラシ一つまでが競争に
それから、もう1つのコマーシャルゲームというのは、何十億払ってトップスポンサーになって、オリンピック商号権を独占、利用できるライセンスを取る競争から選手村で使われる歯ブラシ1つ、スリッパ1つという細かい商品まで全部競争が行なわれているわけです。そういう世界がもう1つのオリンピックをめぐって展開しているのです。
しかしこれがビジネスの1つのゲームとして意味があるとすれば、持続的な成長に貢献する経済状態が作られているのか、格差が縮小したのか。経済波及効果30兆円という試算を出しているところもありますが、30兆円はどこへ流れるのか。誰のメリットになっているのか。こういうことが追及され、分析されないままに、何兆円の経済効果というようなもので納得させられていてはいけないわけです。
都民はホストの自覚を
スポンサーのための大会せず
成功に向かっていくためには、誰のための誰による誰のイベントかということを常に考えていかなければと思います。組織委員会がやってくれることだとか、小池(都知事)がやってくれることだとか、思ってはいけないのです。都民はホストで、お客さん=ゲストではないのです。
企業の世界ではステークホルダーという言葉を使うわけです。その事業などの関係者全体を意味します。そうすると、2020年の大会にはIOC、NOC、IF(国際競技連盟)、競技者という関係者がいます。それから、スポンサーがいてメディアがあって、組織委員会があってスポーツファンがいる。その下に東京都があり、都民が、被災者が、一般市民がいて難民がいて人類がいて、こういう構造になっている。オリンピックの根本原則では、すべてのオリンピックの理念が行き渡ってほしいということで言っている。放っとけば、一番メリットを受けるのはスポンサーです。だから、もっと厳しい目で見ていかなければいけない。
オリンピックについては、間違いなくもうジャーナリズムはありません。日本の有力紙は全部協賛団体ですから、批判的なスタンスは取れません。お金払って、スポンサーになっているわけですから。メディア委員会の委員になっていて、オリンピックを盛り上げる役割を担う約束をしているわけ、お金をあげて。そういう意味で言うと、オリンピック批判というのは、もうあまり期待できないことになるわけです。反骨精神のメディアの人がいれば、ぜひ発揮してもらいたいと思いますが、現実には少ない。メディア委員会に入れてくれなかったところは東京新聞だけでしたから。なぜかローカル紙なんですね。東京都でやる大会のローカル紙なのに入れてくれないんですよ。国立競技場の問題をずっとしつこく取り上げたからというふうにいわれたりしています。
こういうことから見ると、あの人に任せていれば大丈夫だというようなものではないですから、オリンピックの準備にしても運営にしても、やっぱり尋ねて、疑問は正してそれで、情報を公開する。そして、問題点があれば議論をするという本当に民主主義の原則に立って、やっていかない限り2020年大会から何かを得ようと期待することは、非常に難しいと思います。
ですから、今、問われているのは、スポーツ界にはスポーツの姿勢です。都民には議会も含めて民主主義の徹底だと思います。