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○ 思い出の一曲

変わらねば勝てないの
相撲部屋で聞いた「木綿の~」

 【荒川・塗装・堀井龍二通信員】私の思い出の1曲は、昭和50年春場所の立浪部屋の宿舎で聞いた太田裕美の「木綿のハンカチーフ」です。
 父の会社の職人さんが「龍二。相撲界は軍隊より厳しいところだから、出世して帰ってくるか片輪になって帰ってくるか、どっちかだぞ」と脅されました。「おれは平和主義者なんだ。幸せな時代を送りたい…」。
 おじさんの勧めでたまたま会社に来ていた材料屋さんが立浪部屋所属の親方を知っていて、それで大阪の生玉寺(いくたまてら)にある宿舎へ行きました。新しい環境でダメージもあったのか風邪が治らず、その時にラジオから流れてきたのが太田裕美の「木綿のハンカチーフ」でした。曲の中には「変わっていくぼくを許して」と歌っていますが、私も土俵の中で変わっていかないと相手に勝てないのかと思い、それが思い出の曲になりました。

衝撃のダミ声TVで
「ミスター・ムーンライト」

 【村山大和・塗装・工藤幸雄通信員】衝撃のダミ声がテレビから流れ出し、画像にはまだ見ぬ東京、真夜中の高速道路。曲はビートルズ、ジョン・レノンの「ミスター・ムーンライト」。ビートルズが来日時にテレビで放映されたワンシーンである。
 青森県は津軽地方、テレビの前には中学生の私一人。
 放送された時間は夜の8時か9時頃だったと記憶しているが、農家の実家は朝が早い分、夜は寝るのが随分と早かった。座敷でポツンと一人で観ていた私は興奮のあまり、この時間を誰かと共有したくなり寝ていた母を起こし、母は居眠りをしながら横に座って付き合ってくれた。
 以来ビートルズファンに。3年前に70歳になったポールが来日。東京ドームでのコンサート、今度は隣の座席に65歳になった女房が付き合ってくれた。

デビュー曲「先生」
森昌子のプロマイド収集

 【足立・瓦・森和夫通信員】私の思い出の1曲は、森昌子の「先生」です。
 今から45年前に、まだ中学3年、アイドルの中三トリオ、山口百恵、桜田淳子とともにデビューのころです。私はその中で森昌子のファンで、プロマイドや雑誌の切り抜きを集めたものでした。今でも実家の押し入れの奥にしまってあります。宝物というわけではないのですが、親もよく捨てずに残していたものだと思います。
 小さいころの(今でも小さいですが)思い出をしまっておいてくれた親に感謝の気持ちでありがとう。
 また懐かしい思い出をよみがらせてくれて、通信員総会でこの記事書きのテーマを与えてくれたことに感謝です。

大ヒット「なごり雪」
青春はフォークに熱中

 【江戸川・監督事務・石田里美通信員】ただ今、61歳の初冬を迎えている私の高校生時代は無気力、無感動、無責任の三無主義が代名詞でした。確かに老後の年金のことなんて、露ほども考えてはいませんでしたよ。
 またシンガーソングライター時代であり、フォークにはどっぷりつかっていました。中でも好きだったのが、かぐや姫で今でも家の隅っこにドーナツ盤が眠っています。
 その中でも一番好きな曲が、伊勢正三さんの作った「なごり雪」です。聴くと映画の一場面のように情景が浮かんでくるのです。後にイルカさんが唄って大ヒット。今だに昭和~平成の恋唄ランキング第1位を誇っている唄でもあるんです。最後の1カ所だけ唄い方が原曲と違っていると主張しているのは私だけだと思うんですが、微妙に違うんですよ。
 私の青春時代スマホなんて代物はなかったけれど、昭和の一番良い時代でしたね。この曲がカラオケ十八番(おはこ)なのは言うまでもありません。

大声で喉に激痛
病院といえば「完全無欠~」

 【西多摩・瓦・髙野初雄通信員】仕事中転んで膝を強打、ケガをしてしまいました。病院で診察を待っていると、「20代、30代だったら、こんなことなかったのに」という思いと重なって、思い出される懐かしい記憶とBGMのように流れる曲が頭の中にあふれます。
 20歳になったばかり、仕事が終わると夜な夜な友達と車を走らせました。カーステレオから流れた曲は、今もはっきり覚えています。病院で頭をよぎったのも、その時の曲でした。アラジンの「完全無欠のロックンローラー」。その日も友達を乗せ、この曲を大声で歌いながら、車を走らせました。
 翌日、のどに激しい痛みを感じて目を覚まし、病院へ。しかしその病院では手に負えず、大学病院で手術が必要ということで緊急入院。手術はしないで済みましたが、そのことがトラウマになっているようで、今でも病院というとこの曲が頭の中に流れます。

「バージニアリール」
小中時代のフォークダンス

 【文京・電工・本多健一通信員】1年間が速い昨今ですが、なぜか小中学校時代は長く感じられました。そんな当時、朝礼の勇ましいマーチ、米軍の行進曲だと想像しますが、何曲か流れました。
 また運動会のフォークダンスでのヨーロッパの民族を想わせる曲、これは学年ごとに違っていました。また給食の放送に流れるモダンな洋楽と、どれをとっても、どっぷり舶来漬けでした。
 しかしまだ子どもであった私には、どれも強烈な印象で残りました。皆さんが今聞いたらすぐ分かる曲かしれもせんが、私には曲目はわかりませんでした。今でもCDを探しています。
 そんな中で小学校6年生の時のフォークダンスの曲、バージニア・リールを思い出の1曲に選びます。

運転中に自然と
「大きな古時計」で体調管理

 【板橋・シャッター工・内田恒夫通信員】「また、歌ってる」。車の運転中に同乗者によく言われることがある。気分よく順調に運転している時に知らずに口ずさんでいる。
 子どもが小さいときに一緒に聞いた記憶もないし、歌った記憶もない。どこでどう間違って、記憶に刷り込まれたのかも分からない。ただ、その歌を口ずさむのは体調万全で仕事も順調、交通状況も快調の時に限られている。「今日は歌ってないから、ヤバいかと思った」と同乗者に言われた事もある。
 思い出の曲とは言えないが、忘れられない曲である。「大きなノッポの古時計、おじいさんの時計…」。体調管理の曲とも言える1曲であることは間違いない。
 不思議な事に全曲を口ずさむ訳ではなく、最初のフレーズの繰り返しになっている。スナックで歌っても歌詞を見ないと全曲は歌えない。不思議である。

家族のため頑張ろう
改札で流れた「トップ・オブ~」

 【町田・配管・清水健通信員】一番はカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」だ。
 まだ学生の頃、同じ学校に通っていた交際相手を駅まで送り、改札口前で小一時間ほど話し、電車に乗るのを見送るのが日課だった。その時、いつも流れていた曲である。心地よい曲の流れの中で、いったい毎日何を話していたのか。今となっては全く思い出せないが、曲だけは強く印象に残っている。
 その後、交際は終わるのだが、それは夫婦というものに形を変えたからだ。結婚して20数年、子どもも交えいろいろなことがあり、笑いもすれば怒りもする、にぎやかな毎日だ。
 時どき曲を聴いて何となく昔を思い出して、あらためて家族のために頑張ろうと思う、そんな曲だ。

「抱きしめたい」で胎教
武道館ライブはTV中継で

 【豊島・主婦・野本陽子通信員】初めてビートルズを聴いたのは高校生の時、音の作り方の何と斬新なことかと、とりこになりました。ラジオにかじりついてベストテンを聴いていたのを思い出します。特に「抱きしめたい」は原語ですべて覚えて、曲が流れると一緒に歌って楽しんでいました。ビートルズが初来日して、武道館ライブの日は勤め先の乳児院で夜勤でした。テレビ中継の時間に合わせて休憩をもらって観ていました。
 長男の妊娠中もお腹の中でビートルズを聴かせていたので、生まれてからも聴かせると、大泣きをしていても泣き止んで、曲に合わせて体を動かしたりしていたことを思い出して、とても懐かしくなりました。
 今はラジオを聴くこともほとんどなくなり、テレビばかりの生活になりましたが、時どきこの曲が聞こえてくると「まだ歌える」とうれしくなります。

CD彼女に貸したが
カラオケで絶対歌わない

 【江戸川・ユニットバス・小松潤通信員】私には、カラオケでは決して歌わない曲がある。
 14歳、中学2年の初秋のある日。新学期恒例の席替えが行なわれ親しい友人数人と陣取った、教室のやや後ろ目の左当たりの席、私の隣の席に彼女がいた。背は小さく、いつも笑っているような子だった。私はすぐ心惹かれ、毎日毎日いろいろな話をした。当時の私は彼女と話すことが楽しくて学校に通っていた。
 ある日話題にのぼった、その頃出たての新曲の話に「あの曲いいよね」と彼女が言った。私は「CD貸してあげるよ」と言って、放課後CDショップに立ち寄った。買ったばかりのCDに、それとわからないように擦って風合いを付け、翌日彼女に手渡した。数日後、CDを少しばかりうらやましく、愛おしく思ったことを今でもキラキラした思い出として覚えている。
 その後のことについては冒頭の一文から察していただきたいと思う。

「さとうきび畑」に涙
土人発言許しがたい暴挙

 【品川・電気・高橋宏通信員】「さとうきび畑」の歌。車の運転中、私は時どき鼻歌を歌う。何気なく歌っている時、思わず涙が出そうになる一節がある。「昔、海の向こうから戦がやってきた」「鉄の雨にうたれ父は死んでいった」の部分である。
 沖縄戦のすさまじさはよく知られている。しかし日本軍による沖縄島民への差別を知る人は少ない。戦前の日本には3大被差別民がいたと聞いた。朝鮮人、未解放部落民、沖縄島民である。この差別意識が本土防衛のための信じられない犠牲を沖縄島民に強いたのではないか。
 だからこそ機動隊員による、いわゆる「土人」発言は本土民が考える以上に沖縄県民に許しがたい暴挙だと思い知らねばならぬ。翁長知事によると、基地のない沖縄の未来はとても明るいという。

切ない「鐘の鳴る丘」
上野地下道の虚ろな目

 【台東・塗装・遠藤顕寛通信員】同時代性はない、でもいまだに忘れられない光景、そして何となく、懐かしくまた切ない「鐘の鳴る丘」という歌。
 かなり私が小さい時だった。母に連れられ、よく兄と私と妹は一緒に、青砥駅から京成電車で上野に来ていた。当時、父が祖母と東上野の長屋で、塗装と看板の仕事をしていた。自分仕事や手間取りでがんばっていた。
 年配の方はよくご存じのとおり、上野の地下道は暗く、汚れていて、臭いもきつかったと記憶している。大人だけでなく、小さな子どもも少なからずいた。私は何度か、母から小銭を受け取り、地下道にいる、親子の前に気恥ずかしさと少しの緊張を感じながら、握りしめていた小銭をそっと置いた。その時のその人たちの目、今思い返しても虚ろだったと思う。
 「鐘の鳴る丘」はいつ頃からかテレビやラジオで時どき聞こえていた。もちろんNHKラジオドラマは知らない。

「卒業」シーズンには
好き放題しつつ不安抱え

 【江戸川・設備・田嶋隆人通信員】私の思い出の1曲、ズバリ、尾崎豊の「卒業」。
 1986年、高校卒業当時に流行っていた名曲です。青春時代の1ページとも言える高校3年間、歌詞のように好き放題やりつつも、社会や将来に対しての不安を抱き過ごしていた自分にとっては本当に共感できた忘れられない名曲です。今でも、卒業シーズンになるとカラオケで唄ってしまう1曲でもあります。
 ちなみに、私の世代は「卒業ソング世代」で、小学校卒業時には海援隊の「贈る言葉」、中学校卒業時には柏原芳恵の「春なのに」、そして高校卒業時には前述の尾崎豊の「卒業」と並び「卒業3部作」と言われた斉藤由貴の「卒業」、菊池桃子の「卒業」と卒業に関する名曲が流行っていた世代なので、卒業ソングに対する思い入れは人一倍強いものがありますね。

「あの時君は若かった」
小豆島へのサイクリング

 【多摩・稲城・設計・岩武憲生通信員】思い出の1曲は、高1の春休みに友人4人と小豆島へ2泊3日のサイクリングに行くときに乗ったフェリーのジュークボックスで初めて聴いた「あの時君は若かった」です。
 当時は深夜ラジオ放送を聴きながら勉強するのが普通で、ほとんどの人がしていました。洋楽はよく聴いてましたが、和製ポップスは初めてで、行きの船の中で、これはいいなあと友人に曲名を教えてもらい何回も聴きました。
 船の中から、春が近づく瀬戸内海の陽の光にキラキラと反射する波は心地よくあの頃の生なましい気持ちを思い出しました。小豆島の旅は、長い登り坂が続き、それに長い下り坂…。一番後ろを走行していた私はカーブを曲がりきれず、側溝に転落し、計画変更となり、早めのお帰り1泊2日になってしまいました。
 帰路の船中でもあの曲を聴き、今度は夕陽のあたる縦に長い波の反射にも、歌の内容にかかわらず、心地よい船旅ができました。

スサーナの「岐れ道」
道ならぬ恋に胸焦がし

 【板橋・ブロック・野崎寿江通信員】「スコシは私に愛をください」。これは小椋佳の曲ですが、カバーしていたのがアルゼンチンの歌姫、グラシェラ・スサーナです。初めて聞いた歌声に打ちのめされ、大ファンになりました。20歳のころです。
 一番好きな歌は「岐れ道」です。成就しない恋、道ならぬ恋に胸を焦がした若いころ、スサーナの歌声に救われるような気がしたものです。
 レコードを買い集め、来日した折にはコンサートにも行きました。今の私には考えられない情熱、行動力です。
 時代がレコードからCDに変り、そのうち音楽とは縁遠い人生を歩んできました。
 最近、通販の広告にスサーナの名前を発見。CDを取り寄せてみようかと思っています。そして若いころの情熱のひと欠片(かけら)でも取り戻したいものです。

「君に逢えずにいたら」
今も変わらぬ妻への思い

 【目黒・空調・青木清通信員】「もしも君に逢えずにいたら、眠る森でこの心は、疲れ果てて死んでるだろう」。フランスの反戦詩人ルイ・アラゴンが妻となったエルザに贈ったものです。
 アラゴンの詩と最初に出会ったのは60年以上前の17歳の頃でした。「神を信じていた者も信じていなかった者も、彼らの血は共に流され、そして大地でまじわる」。反ファシズム統一戦線を論じた本に引用された一節。決してまじわることのないと言われたクリスチャンと無神論者(共産主義者)とが共に闘ったレジスタンス運動の話でした。以降詩集「フランスの起床ラッパ」は青春のバイブルとなり、また「もしも君に逢えずにいたら」というシャンソンは自らの人生と重ねて、心の奥底までしみるものを感じました。妻と出会って52年、今でもその気持ちは変わりません。

今の若者に
「ユアソング」

 【三鷹武蔵野・建具・佐藤肇通信員】私の思い出の1曲、その曲は私が青春真っただ中だった頃、体に染み込むように流れてきたエルトン・ジョンの「ユアソング」。
 この曲を聴くと、当時の状況、思い、その時の感情、当時の友人の顔など、タイムスリップしたみたいに40年前の情景がよみがえる。私の大切な1曲です。
 今になってもこの曲を聴くと、自分では現在に至るまでの間で考えても、ものすごくすぐれた美しい曲だと確信しているが、この曲を今の20歳ぐらいの若者たちに聴かせても、何の反応もしないか、特によい曲だと思わないようだ。
 時代は確実に変わったようだ。今は、あの頃と違ってもっとエネルギッシュで、にぎやかな曲風が好まれているようだ。

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