2177号(6月20日付)では、教宣活動家の皆さんの「今も思い出される父の一言」を紹介しました。今号は母バージョンです。
みんな仲良くしてね
瓦上げの辛い仕事を父と
【八王子・瓦工・向井明通信員】「仲良くしてね」。私の心にいつまでも残る大切な言葉です。
瓦屋の仕事は瓦を屋根に上げるのが一番きつい仕事です。瓦上げ機が開発された時は、瓦屋は皆大喜びでした。
しかし、この瓦上げ機を動かすには最低、屋根の上と下で二人が必要でした。瓦上げの仕事では、父は楽になりましたが、母は建物の下で瓦を機械に積み、運転していました。両親とも40歳代のことです。
瓦上げはきつい仕事です。10年くらい両親は二人で瓦屋を続けていました。そのせいか母は50歳代中ごろから体調不良になり、パーキンソン病を患い、自宅療養から入院となり、亡くなりました。今、私は母の亡くなった年齢62歳を超えました。
見舞いに行くといつも決まって言った言葉が、いつまでもみんなで「仲良くしてね」でした。この言葉を忘れることなく、家族、仕事仲間、東京土建の皆さんとともに過ごしたいと思います。
心の貧乏はするな
財布の中10円でも笑顔
【中野・主婦・大野光子通信員】今も思い出される父、母の一言。父からは「うわべだけでの優しさはするな。これをしたらこうしてくれるという卑しい考えで物事をしてはいけない」といつもきれいな心を持つ女であること教えられました。
母からは「心の貧乏はするな。いつもお金お金と言っていると、入ってくるお金も逃げていく」と。心を豊かに明るい気持ちで生活することを教えてくれた母は本当にその通りの人でした。お財布の中に10円だけでも、いつも笑顔で明日は明日、元気でいれば、それが心のゆとりだよと言っていました。父、母に言われた一言は私の頭から今も消えません。
そして、これからも両親の教えは守って生きていきたいと思っています。
夫の病気は妻の責任
食事作り注意したけれど
【三鷹武蔵野・主婦・杉浦由美子記】母は大正4年1月生まれで数え年、100歳になります。自分のことは自分ででき、好き嫌いなしの食欲旺盛。一つ悲しいことは物忘れが段だんと進んでいることです。そんな母の一言が思い出されます。
「夫が病気するのは妻のせい。自分の責任と思いなさい」と。あれから50年。この言葉を忘れずずっと食事には注意してきました。朝4時半までにお弁当を作り、私は中身に自己満足をし、夫を仕事に送り出したものです。
しかし3年前より楽をしています。夫が東京土建の健康診断で「心房細動」が見つかり、仕事をセーブしたのです。見た目には一般人と変わりませんが、朝晩薬を飲み、一日3時間の散歩をする毎日です。
症状がなかったのですが、妻の私が悪かったのでしょうか。今でも時時深く悩みます。
兵隊ならずよかった
体が大きいこと悩む私に
【墨田・タイル・浅見英夫通信員】もう半世紀以上も前になるんだなあ。正確に言えば、53年前の小学6年生の頃のある日のこと。
その当時、私はそれなりに悩んでいたんだと思う。今思えば笑って済む話なのだ。東京オリンピックを迎える準備で騒然としながら、活気を帯びた東京下町の墨田区で戦争を知らない世代として生まれた小学生。食糧難をやり過ごして育った自分の悩みなど誰も関心を持つ訳などない話だ。
私はその頃、身長1m68㎝、体重64㎏もあった。整列すればいつも一番後ろ。何につけ体の大きい子は最後にと言われ続けた。もちろん良いこともあったのだと思うが忘れてしまった。
「お前は体が大きいから目立つのでしっかりしろ」とか「見本になれ」とかかんとか言われて育った。トラウマってやつだ。そんな私を救ってくれた一言は母の何気ない言葉だった。「お前はお母さんの自慢の子だよ。兵隊さんにとられない時代でよかったよ」。
50歳になれば分る
その年齢を過ぎて反省
【府中国立・型枠事務・畠山京子記】「お前も50歳になったらわかるから」と今でも忘れられない母の一言です。今、私はその歳をすでに過ぎ、当時を思い出すと顔が赤くなる思いがしています。
両親共働きの我が家で、父はサラリーマン、母は工場に勤めていましたが、脳動脈瘤でなかなか手術ができず約2カ月入院しました。退院後はしばらく療養していましたが、仕事もやめ家にいる毎日でした。以前のようにはならないまでも、だいぶ体力的にも回復したので仕事を再開することになりました。
初めて休みの日、その日は母の日。何度もため息をついていたので「何度もうるさいわね」と言った私に返した一言でした。その時は「何だ」と思い、母がしていたことを代わりにしましたが、納得がいきませんでした。調子が悪かったのかなとか、少し気使いがあればと反省をする日日が続いたものでした。
いつもニコニコ顔
されて嫌なことするな
【八王子・左官事務・高田みよ子通信員】「自分にされたくない事を他人にしてはいけないよ」。戦争の混乱の中で生まれ育った私の母は長女、子どもが多かったために小さい頃から子守りに出され、学校に行っていません(社会人になって知りました)。
一生懸命働き愚痴一つ言わず、自分は我慢して父と出会い7人の子どもを育てました。ニコニコしている母の元へは、いつも誰かが相談や遊び、卵買いにと来ていました。鶏卵の売上げは母が自由に使っていいと父は何も言いませんでしたので、母は紙に包んで持たせたりしていました。
自分が歩んだ人生の中で得た言葉には重みがあり、私も大切にしていきたいと思います。父は他界しましたが、入所中の母はいつもニコニコ顔で「自分が…」と介護士さんたちに話しかけているそうです。
自分を見つめなさい
幼子連れ実家に帰ったら
【調布・ハウスクリーニング・小田井文栄通信員】結婚してから一度だけ泣き言を言いに実家に帰ったことがあります。まだ3人とも小さかったのですが、本気で自分一人で育てるつもりで実家に帰って母に夫の悪いところを話し、もう別れると言いました。その後、母はあんたは好きな人と一緒になったんでしょうと、そして相手しか見ていないと、自分をみなさいと。
それを言われた時、確かに相手しか見ていなくて自分は見ていなかったと、誰でもいいところも悪いところもあると、相手も我慢していることもあると。それ以来大きな喧嘩もなく過ごしました。子どもにも好きな人と結婚して、もし愚痴を言ってきたら、母から言われたことを話そうと思っていますが、今はまだその必要がないようです。
酒癖悪い男はダメ
やたらに信用するなとも
【足立・主婦・細田恵子通信員】私は青森市内で生まれ、山海に恵まれて育ちました。貧乏とは言え、母の実家は農家で週末には祖父の家へ手伝いに行き、帰りには収穫したものを背負いきれないほどもらいます。母は「お金がないけれど、食べ物には苦労してなかった」と笑っていました。そんな母が大好きでした。高校卒業と同時に上京することになり、二つのことを守るように言われました。「東京へ行ったら多種多様の人がいるから、やたらに人を信用しないこと」「結婚相手は働き者であること。金持ちであっても酒癖の悪い人は諦めること」。
この二つを守りながら裏切られることもなく、22歳の時、酒癖も悪くなく働き者の主人と結婚し、母の約束を守ったお陰だと感謝しています。
気は短いからバイクはNG
【江戸川・内装・遠藤喜世志通信員】「おまえは気が短いから絶対にバイクの免許は取らせない」。16歳の僕に母はきつく言った。
自分は「そんな事はない。安全運転するから」と懇願したが、母は許してくれなかった。無免許で仲間のバイクを乗り回しケガをしても「部活(ラグビー部)でタックルしたんだ」と嘘を言ってごまかした。
結婚して子どもができて、母の言葉を思い出した。そして思った。「僕は短気だ」。あの時、母が言ってくれなければ、多分バイクで事故を起こし、死んでいただろう。母は僕のことをよく見ていたんだ。自分が親になって初めて、母のありがたみを知った。
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