1945年8月1日から2日にかけて、長岡、富山、水戸、八王子の4都市と川崎コンビナート地帯を793機のB29が空襲しました。八王子と他の3都市との被害の違いについて、齊藤勉さん(都立東大和南高校教諭)が8月2日に八王子市第31回平和展・平和学習会で講演された概要を紹介します。
八王子空襲を予告した米軍が撒いたリーフレット(伝単)、左側上から2番目の高岡は長岡の誤り 出典:八王子市郷土資料館
8月1日から2日にかけての4都市と川崎の1施設空襲は米国陸軍の航空軍の創立記念日を祝った、いわゆる祝賀空襲として行なわれました。グアム、サイパン、テニアンの空襲ができるB29がほぼ総動員されました。出撃数は861機です。そのうち焼夷弾を搭載していたのは793機です。4都市まとめてみると最大級の本土空襲であり、おそらく第2次世界大戦を通じてもほぼ最大級といっていいのではないかと思います。
4都市の人口についてはいろいろな統計がありますが、長岡は7万4千くらい、八王子は7万7千くらいです。富山市は16万8千、水戸市は6万6千くらいです。長岡、八王子、水戸は似たような人口規模です。
死亡者数は長岡が人口7万4508に対して1476です。八王子が445です。それから富山が2704、水戸は242です。
人口に対する死亡者の割合は長岡の場合1.98ですから人口の2%くらい。八王子は0.57ですから、ずいぶん少ない。富山は1.6ですから八王子の3倍くらいある。一番少ないのは水戸です。
長岡は町の中の小川で溺死した人がいる。それから公共の防空壕があって、そこで240人くらいが亡くなっています。240人は水戸市の全体の死亡者とほぼ同じです。
なぜこんな風に違ってしまったのか。おそらく一つは、水戸が少ないのは市街に人がいなかったからです。4月に日立市が艦砲射撃を受け、水戸は基本的に市街からいなくなった。富山は軍都で兵隊が守ってくれるという意識があり、結果的に逃げ遅れているという感じです。長岡は新潟県第2の都市なので、最初にやられるのは新潟だと考えたらしい。ところが新潟はとっておかれて、長岡が空襲された。長岡は新潟の後だという意識があり、これだけの死者を出したのかなと思います。ちなみに新潟市がとっておかれたのは原爆の候補地だったからです。
長岡と富山の飛行コースはぐるっと回ってきている。したがって自分のところでないと思ったのに回ってきた。そういった複合的な要因があって対応が遅れ、逃げ遅れたということで富山、長岡の死者が多いのだろうと思います。
生死を分けた情報
ラジオ放送は、軍・警察は
死亡者の数を左右したのは空襲の実態についての情報をどのように入手していたかです。
つまり八王子が8月2日に空襲をうける前までに、八王子は前年の11月24日の中島飛行機武蔵製作所への空襲を見ることができたのです。4月になると八王子市内でも空襲で死亡者がでますが、そういった空襲とはいったいどんなものなのか、とくに3月10日の東京大空襲について、どうも東京大空襲を体験した方は防空壕が役に立たないという言い方をしてきたのではないかという印象を持っています。
もう一つは空襲の予告、八王子の場合はよく予告されています。予告されていても、予告された奇襲という言い方をしますが、予告されても突然襲われたという印象を皆さん持っています。
どのように準備していたかという問題があります。一番検証は難しいですが、ラジオ放送は何をどこまで放送していたのか。市民はそれをどのように聞き、それに基づいてどのように行動したのかという問題があります。ラジオ放送は空襲の時には欠かせない情報源でした。とくに東部軍管区情報についてはすぐに流れてきたのですが、体験記でもラジオで川崎が空襲をうけたとか長岡が空襲をうけたという放送をしていたという記録がある。ということは、いったん市外に避難した市民が、じゃあ今日はないのではないかと帰ってきたのではないかと思います。ただどんな放送をしたかわかりませんが、昭島の警防団の記録にラジオでこんなことを言っていると書いています。おそらくそういった放送はあったと思います。あそこまで体験をした方がいっているのでラジオで長岡あたりが空襲されたという放送があったと思います。
もう一つは行政、警察、軍は市民にどのような指示を出したのか。少なくとも八王子の場合、8月1日の午後あたりに警察のほうから今晩空襲がある可能性があるから準備をせよと言った命令や伝達が出て、隣組の言い継を通じて回ったみたいです。