毎年、6月の第3日曜日は「父の日」。今年は19日でした。5月21日に開催した教宣活動者会議では、参加した教宣活動家の仲間に「今も思い出される父(母)の一言」について書いてもらいました。
泣かすまで帰るな
自立心育ててくれ感謝
【世田谷・塗装・斉藤敬通信員】幼い頃、父母共働きで商売をしていたので、よくいうと放任主義、悪く言うとほったらかしの家庭でした。
そんな両親から言われた一言は、小学校2、3年の時に2歳上の子との喧嘩で泣いて帰ってきたときのこと。「相手を泣かすまで家には入れません」でした。子ども心に考えさせられました。しばらく親の見えない所で隠れていて辺りが暗くなり始めた頃、意を決して相手の家に乗り込みました。相手の両親の前でそれが始まり、見事にリベンジを果たし泣いた後の黒顔で家に帰りました。帰ってからの会話は「行ってきたか」「行ってきたよ」でした。
小中学校と親が出席するような機会は、私も親も忙しいからと断っていて、唯一出席してくれたのが中学の時、高校進学のための三者面談です。学校卒業後の私は自立心が強く、4年制大学へ進学した同級生よりも早く自立することばかり考え、仕事をし、当時個人ではありましたが、23歳で事業主になりました。
私が今あるのも幼い時の親の強い一言があったからのように思います。いざとなったら「全部ケツ持つ」みたいな一言でした。感謝、感謝です。
犠牲の若者忘れない
戦地送った職訓教官の悔悟
【村山大和・タイル・武田良次通信員】戦後70年になる今日、またも戦争する国になりそうな気配が日本の状況にある。
1944年は戦争している日本国でした。私の父は、当時職業訓練所の教官でした。本職は建具屋ですが、戦争に行かなかったので教官として訓練生に、航空母艦に乗せる模型飛行機を作らせていました。
私が5歳の時に、訓練所の文化祭があり、父に連れられて見学に行きました。なぜ偽物を作るのかと聞いたら、父は「今の日本は戦争に負けているのだ。でも国の命令で作らなければならないのだ。日本が戦争に負けているなんて絶対人に言ってはいけない。知られたら大変なことになるんだ」。
そして1945年8月、終戦になりました。終戦の放送をラジオで聞いていた父が、やっと終わったと涙を流した。
ベニヤ板で作った模型飛行機を敗戦直前には知覧飛行場から若者を乗せて特攻隊とし出動させた日本国。父が言った一言は、「私が作ったベニヤ板の飛行機で何人の若者が犠牲になったことか。罪の深さを忘れることは絶対にないだろう」。
1946年に、私は新制教育を受ける小学1年生になりました。
リフォームが大切
和裁教員受験した私に
【練馬・主婦・相原辰子通信員】実家は代々続いている大工です。父も当然ながら6代目を継いでおりました。
私は和裁の専門学校の卒業の頃に、専門学校の教員の資格を取るために筆記と実技の受験をしました。
当時、妹たちの学資や父の仕事の関係で、新しい反物で仕立て、試験に臨むことができず洗い張り物で受験しました。私は父に半べそで、「友だちは新しい反物なので受かったけれど、私は洗い張り物なので落ちたよ」と言ったら、「大工もリフォーム仕事はたくさんある。きれいになり使いやすくなって、お客さんに喜ばれなければ職人とはいえない」と言われました。
直し物を頼まれるとこの言葉を思い出し、がんばります。試験は合格しました。
名を呼ばれて緊張
物理の分野教えてくれた
【多摩・稲城・設計・岩武憲生通信員】父は平成5年(70歳)、母は平成2年(63歳)、共にまだまだこれからという歳に亡くなり、あらためて「父、母の一言」を思い出しても、20年以上も前のことなので、すぐには思い出せません。でも、両親を思い出すいい機会ですので、書きつづります。
父はあまり語らず行動で示す人で、「○○ちゃん!」の一言を発する時は大変緊張しました。学歴のある人で、物理科学の分野では詳しく教えてくれました。その知恵袋は今でも私の脳裏をよぎり、我が子・孫にも説明しています。亡くなった時は、その頭脳が引き継がれるのであれば、欲しいものでした。
母からはよく叱られました。叱られる言葉からいろいろ4文字熟語「不言実行」や「責任感」など漢字と意味を学びました。
今では「こんなお爺ちゃんお婆ちゃんだったよ」と自慢できる両親で、夫婦仲も親戚中からも最高のカップルだと言われるほどでした。
すぐ覚えられるぞ
今は好きな珍しい名前
【江東・ハウスクリーニング・油屋正孝通信員】私は、幼少の頃名字が嫌いだった。佐藤、鈴木などはたくさんいて、目立たない。油屋という珍しい名字はすぐ覚えられてしまう。父によく言われたのは珍しい名字だから、「悪いことをすると、すぐ覚えられるから悪いことはするな」。先祖は菜種油やごま油の問屋をやっていたそうだ。
中学、高校に行くようになってから意識が変わり、名字が好きで好きでたまらなくなった気がする。それは、やはり他人にすぐ覚えてもらえるということ。先日、数十年ぶりに中学の同窓生に偶然会った時「油屋君だよね」と声をかけてくれたのが、佐藤君。どの佐藤君だったかなと…。親父、悪いことしなくても、みんな覚えてくれているぞ。ご先祖様、よい名字にしてくれてありがとう。
気をつけるんだよ
体が弱いのをかばって
【豊島・塗装・大嶋清子通信員】今も思い出される父母の一言です。
私は子供のころ体が弱く、いつも「気をつけるんだよ」と言われました。家の中で一人遊びが常にありました。友だちを家に呼び、タンスの中に隠れたり、押し入れの中に入っても怒ることもなく、鬼ごっこをした思い出があります。
父はいつも体の弱かった私を自転車に乗せ、よく散歩に連れてってくれました。3人兄弟の末っ子の私でしたが、私をかばい我慢してくれたやさしい兄たちでした。
今では、父母も他界してしましまいましたが、大事にしてもらい、私は家族に感謝しています。今は丈夫(じょうぶ)になり、子どもと楽しく生活しています。
そこそこにしておけ
のめり込み易い性格心配で
【世田谷・タイル・勝呂高也通信員】「役員もそこそこにしておけよ」と長く役員をしていた父がよく言っていた言葉です。18年前に父の大病で会社を引き継ぐ際、東京土建の活動も始まりました。
私の物事にのめり込みやすい性格をしっている父は、仕事を疎かにして組合活動に専念するのではと心配しての「そこそこ」だったのでしょう。しかし当時は聞く耳を持たず、仕事を休んで住宅デーの準備をしたりして家計を圧迫させたこともありました。
そこで父の言葉が思い出され「そこそこ」でやっていこうと決めました。仕事より活動を優先されるべきだという人もいますが、長く役員をやるには仕事とのバランスを考えながら「そこそこ」でやっていこうと思っています。
多くの組合員と接することにより仕事をもらうことも少なくありません。今では楽しみながら活動しています。
映画の感想を言え
3人の子に戦争考えさせる
【世田谷・コンクリート圧送・江沢昌也通信員】私の父は昭和6年生まれで戦争を体験していたこともあり、幼少の頃にテレビの戦争を題材にした映画を観ると、終了後に必ず「今の映画を観て何を感じたか話してみろ」と、父の前に兄弟3人で正座しての話し合いがありました。
その話し合いは、長い時には1時間以上にもおよびました。2歳上の兄は父が求めている戦争についての意見を言っていたようですが、小学校低学年だった私は俳優のアクションや爆破シーンのすごさを話すのが精一杯で、下の弟に至ってはウトウトしていて半分は寝ていたような気がします。
現在の日本では安保法制の改悪により、周辺事態に巻き込まれたり、自衛隊が現地へ派遣されるような状況になっています。
今こそ、戦争に関する話を若い世代の方たちも含めて話し合いをする必要があるのではないでしょうか。
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