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○ 核なき平和な世界を 原水爆禁止世界大会2015

 被爆70年、東京土建本部は2015原水爆禁止世界大会に代表団として8月4日から6日の広島大会に3人、8月7日から9日までの長崎大会に20人を派遣しました。長崎大会のようすと参加者の思いを掲載します。


被爆者が体験語る
危険な原発もない日本に

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6000人が参加した長崎大会

 【本部・古舘秀哉記】核兵器のない平和で公正な世界を求める原水爆禁止世界大会2015長崎に、朝倉法明団長(本部副委員長)を先頭に本部中執と品川、狛江、調布支部および青年部、主婦の会から20人が参加しました。
 代表団は7月30日に本部会館で結団式を行ない、その中でロシアのマヤーク核施設コンビナートによる放射能被爆の実態を明らかにするドキュメント「不毛の地」で核の恐ろしさを学び、長崎大会にのぞみました。
 全体会会場の市民会館体育館には6000人の参加者が集まり、被爆70年スペシャルプログラムでは多くの被爆者から当時の悲惨な体験談をきくことができました。
 また1日目は夕方より四海楼に会場を移して懇親会を開催。本部代表団に各支部代表団も加え、全体で17支部56人が参加し、白滝書記長から激励がありました。
 2日目は12のテーマ別集会や市内をめぐる動く分科会があり、本部代表団は5カ所に分かれ学習をしました。
 長崎は1945年8月9日に広島型原子爆弾の1・5倍の破壊力がある「ファットマン」が投下され、7万人以上が亡くなっていますが、その被害は起伏の少ない広島の半分程度だったそうです。

被害の実相を目の当たりに

 実際に長崎を訪れてみて、海が近く、山に囲まれている地形や原爆資料館で移築された被爆建築物などを目の当たりにして、原子爆弾の被害の実相をしり「人のくらしやその後の人生までも無差別に破壊してしまう核兵器の廃絶をすすめなければいけない」と思いを新たにしました。
 また九州には川内原発もあり、この時期の再稼動とすすまない福島の復興にいら立ちをおぼえました。
 ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・ウォーを合言葉に長崎での体験を伝え活かし、核兵器のない、そして危険な原子力に頼らない日本にしなければいけないと決意しました。


話きいて見て考えた 参加者の声

まだ戦争したいのか
安倍政権の危険わかった

 【八王子・大工・高橋俊光記】原水禁世界大会の現地の空気にふれて初めて、すごい大会に参加したと気づかされました。
 開会の式典では、被爆した人の悲痛な話とその時の写真は戦争をしらない自分たち若者にでも原爆の恐ろしさ悲惨さが写真1枚で分かるほどのインパクトがありました。
 2日目には分散会で佐世保基地調査に向かい佐世保の街がどれほど危険にさらされているか学びました。
 あちらこちらに弾薬庫が設置され、特に民家から70メートルの位置にあるのには驚きました。この弾薬庫の撤去を要求するとアメリカ軍は、かわりに別のところに弾薬庫を作れと要求し、政府が別の場所に2000億円もの国民の税金を使い作っています。
 原爆資料館も見学に行きました。被爆された人の話をきき、佐世保基地の実態を見てきて資料館に入ると、ひとつひとつが重く感じ、なかでも壁に焼きついた人の影は原爆の恐ろしさを物語っていました。このような資料が残っているのに、まだ日本は戦争がしたいのかと考えさせられ、今の安倍政権がどれほど危険なことをしようとしているのかよくわかりました。
 70年経った今まさにまた戦争をしようとしている安倍政権は、自分たち若者にとっても脅威です。
 戦争のできる日本にさせないためにも自分たちができることを精一杯やり、自分たちよりも若い世代につながるようにしていきたいです。(青年部)


なぜ投下でなく落下
理解できぬアメリカの理由

 【西多摩・防水・功刀映記】2日目は朝から「原爆落下中心地公園」で現地ボランティアの方にガイドをしていただき、市内の被爆地や慰霊碑・原爆資料館などを見てまわるという分科会に参加をしました。
 周辺には他にも、「山王神社の片足鳥居」「2本の大楠(クス)の木」「浦上天主堂・旧鐘楼(旧ショウロウ)」など、たくさんの遺跡が70年たった今でも当時のままの姿で残っているのには驚きました。それだけ「当時の悲惨さを風化させない、後世に語り継ごう」という強い思いを感じました。
 そして、個人的に「原爆落下中心地公園」になぜ「落下」という言葉が使われているのか気になりきくと、石柱を建設した当時「投下」という言葉を使うことにアメリカから猛反対があったようです。理由は、長崎は当初の投下予定地ではなく戦争を早期に終結させるために止むを得ず取った処置などという、日本人には理解しがたいことだったそうです。その話をきいて、個人的にいろいろな考えがめぐってきましたが、目の前でそういった歴史を乗りこえた被爆者の方を思うと言葉が出ませんでした。
 最後にこの3日間を通じて感じたことは、被爆者のかたがたの思いをムダにせず、その体験談をわれわれ若い世代が語り継ぐことがだいじだと感じました。
 今年は戦後70年の節目の年。被爆者の方の平均年齢も80歳代なったといわれて、ますます経験をきく機会が少なくなってくると思うので、80年、90年、100年とずっと日本の戦後が続くように勉強し活動していきます。(青年部)


子どもの未来守る
命の危険感じる今こそ

 【中野・主婦・濱崎菜央子記】ある日、息子あてに一通の手紙が届きました。
 内容は自衛隊のお誘いです。
 戦後、日本は「戦争をしない」「武器を持たない」と約束した憲法が作られたはずです。
 しかし、安倍政権により集団的自衛権の行使容認、戦争法案を押し進め、戦争する国に戻されようとしている中で命の危険を感じた今こそ、長崎に行って被爆者の声をききたい、当時のようすをしりたい、と思い原水禁大会に参加しました。
 長崎では、被爆者の話をきいたり、原爆資料館、平和公園へと足を運びました。
 70年前の8月9日。青い空が虹色にひかり、爆風とともに一瞬にして、町と人が壊されました。家族を必死に探す姿、泣きながらさまよう子どもの姿、肉が焼けおちて内臓が見えるひとびとの写真には目をおおいたくなりました。
 そして、長年にわたる闘病生活、これからの病気への不安、見えない放射線の話は、きいているだけで胸がつまりました。
 私たちは、できることを声にだし、運動をしていかなければいけないと思います。
 未来を守るため、青い空は青いままで子どもに伝えていき、二度と被爆者を出さないために、種をまき、育て、大きな力につなげていきたいと思います。

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