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○  紹介します私の「師匠」

 「人生、われ以外みな師」。昔、中国のえらい学者が謙虚に学ぶ心がけをこうさとしました。仕事はもちろんのこと、生活、趣味、生き方、見習うべき人、感謝する人、目標とする人、自分を発奮させてくれる人がいるものです。そんな人について、5月の教宣活動者会議で書いてもらいました。今号から紹介していきます。


仕事では赤の他人だ
気性の荒い兄の下で修業

 【東村山・塗装・齋藤正裕通信員】私の親方は実兄です。気性が荒く、仕事を教えるのが大変下手くそです。私が塗装職人の世界に入ってわずか3日しかたっていないのに、直線が曲がっていると怒りだす始末です。
 まさか私が職人になるとは思いもしていませんでした。兄が胃潰瘍を患い、仕事が一時的にできなくなり、私に「仕事を手伝ってくれないか」と連絡があり、私もそのころ上司と折り合いがうまくないこともあって、この際と考え手伝うことにしました。営業から職人の世界へと違う職業に入り、わからないことばかりでかなりとまどいました。
 先輩の職人さんたちからは、仕事が下手くそだとか、遅いといわれ悔しい思いをしたことも多くありましたが、今ではよい思い出です。働いている時は兄弟ではなく、赤の他人と考えていました。
 独立してから、もう30年が過ぎ、私が逆に若い人たちに教える立場となり、物事や自分の意志を伝えるのがむずかしく思います。親方ありがとう。


釣りも組合も熱心
江黒さん亡き父と同い年

 【世田谷・内装・秋元正眞通信員】「次の水曜日、行ける?」と誘ってくれるのは、同じ喜多見分会所属の江黒さんです。私の亡くなった父と同い年で御年80歳、釣りの師匠です。
 みんなで船酔いする状況でも一人もくもくと釣り上げ「今日はたくさん釣れたから分けてやるよ」と型のいい魚を惜しげもなくまわりに振るまい、いつも残るのは雑魚ばかり。調理もすばらしく、一流のシェフ顔負けの味に、分会の役員たちもリクエストを出すほどです。
 他人のめんどうをみるのが好きで、みんながよろこぶ顔こそが江黒さんががんばろうとする原動力のように思えます。
 しかし都合をいって釣行を次の週に延ばしてほしいという人に対しては「お魚さんは待ってくれないよ。仕事も釣りも今っていう時があるんだぜ」といって切ったりします。
 分会執行委員会では、一番文句をいうくせに、一番熱心な江黒さん。これから先何十年も一緒に釣りにいきましょうね。


冷凍機修理達人の父も
家庭生活では反面教師

 【目黒・冷暖房・青木清通信員】冷凍機の修理を長くやってきた私の師といえば、やはり父親になります。
 冷凍機の歴史は冷媒ガスの歴史でもあります。亜硫酸ガスやアンモニアから始まって、私はフレオンガスで終わりましたが、父は戦前からこの仕事にかかわった数少ない草分けの職人でした。
 私が父のもとで始めた約60年前はメチールクロライドの時代でした。外部へ漏れだせば引火の危険もあり、吸い込めば頭がふらつくというやっかいなものでした。そんな冷媒の扱いが冷凍機の原理、故障の診断から作業手順と、思えばかなり優秀な師匠でした。
 そんな父親ですが、家庭生活ははちゃめちゃ。妻子を捨てて若い女と駆け落ち。そこは反面教師として私は自分をいましめてきたつもりです。
 私の家庭生活は?女房や子どもにあらためてきいてください。


一緒にツーリング
64歳のライダーKさん

 【清瀬久留米・電気・尾芦富雄通信員】私にはKさんというバイクの師匠がいます。16歳の時に自動二輪免許を取り、バイクに乗っていましたが、18歳で車に乗り始めると、バイクとはまったく離れていきました。
 Kさんは私の姉の同級生で、あるキッカケでしりあいました。Kさんはベテランライダーです。バイクから離れて約9年、Kさんとその仲間たちのツーリングでバイクに目ざめました。私も54歳になりますが、Kさんと私の姉は64歳、姉もKさんの影響でライダーになりました。
 ハーレーのオーナーズグループにも入っていて、ツーリングもひんぱんに出かけます。
 Kさんとの出会いがあったから、好きなバイクに乗っているのだと思います。


迫力のある戦中派
生活基盤作ってくれた社長

 【多摩・稲城・設計・岩武憲生通信員】オイルショックで大学を卒業しても就職難の時、新しく会社を設立して「うちの会社に来ないか?」といわれ入社した会社の社長。きびしい人でした。
 社長は朝6時に出社して事務所のトイレ掃除から始まり、仕事の段取りなどをこなしたころ、3人の社員が出社します。私は入社間近で、一番下っぱで男社会なので最初はお茶くみ、外回りの雑用が主な仕事でした。
 会社は午後6時に終わり、よく社長に飲みに誘われました。社長と二人だけの席では、今から思うと若さのためか生意気なことを話しても、全部つぶされてしまうほどの迫力のある戦中の人でした。
 お世話になった会社も10年がたつと、後輩も育って私も独立することになり退社しました。きびしい社長でしたが、人の生活基盤を作ってくれた人だと、60歳を過ぎた今思いました。入社当時の他の会社では厚生年金などない中、この会社にはあり、国民年金への移行も義務意識を持って、今日になりました。年金受給者への仲間入りです。


ガン屋の佐々木さん
吹付も遊びも目標に

 【荒川・塗装・堀井龍二通信員】私の師匠の思い出は自分のお父さんのところで働いていた職人さんで、私が小さい時にお守りをしてくれた人です。
 大酒飲みで、夜寝ていた時に家に電話がかかってきて「龍二、スナックにいるから飲みにこい」といわれたけれど、眠かったので断わったら、再度電話がかかってきて「じゃ、行きます」と急いで行きました。スナックに着いたらパンツ一丁でよかちん音頭を踊り、千円札をバラまいていました。
 建設業が景気のよい時で田中角栄が総理大臣をしていました。
 景気をよくするにはヨイごしの金は持たない建設職人の賃金を上げることです。お金が循環して景気がよくなると、後に賃金部長をやった時に強く感じました。
 昔は、塗装屋というよりガン屋さんの愛称で親しまれていました。師匠の佐々木さんは材料を喰わず芸術的な仕上げをできる吹付技術を持っていて、私の目標の人でした。


息子に指導受ける
スケートボード悪戦苦闘

 【三鷹武蔵野・書記・中宿稔通信員】今の私の師匠は、小学5年の長男と小学1年の次男です。
 昨年の冬季オリンピックのスノーボードを観て、「スゴい」「やってみたい」と息子たち。ゲレンデで私たち以外、ほとんど見かけなかった1991年から結婚するまでやっていたこともあり、安易に「やるか」と…。
 しかし諸事情で同じ横乗りのスケートボードに進路変更。私が20年ほど離れていたスケートボードに悪戦苦闘しているのを横目に、息子たちはこの1年で、アッという間に上達。最初は教えていた私も今では逆に「そこで板回してすべってみて」などと指導を受ける始末。
 子どもの吸収力のスゴさに驚くとともに、年齢にはかてぬと自分をなぐさめます。ただここでがんばらねば、1歳半の息子も師匠になるのは時間の問題か。


「一国一城の主になれ」
親方の教えは今も

 【町田・大工・佐藤雄二通信員】20歳の時に、2人目の親方の門を叩いたのは今から38年も昔ですが、よくおぼえています。
 1人目の師匠には棟梁と呼ぶようにいわれたので、2人目の師匠にお会いした時に「棟梁」といったら、「それはお施主様が呼ぶ時だ」いわれ、「親方」となおすように指導されました。
 仕事の時は特にきびしい人でした。そのために職人さんは長く続きませんし、若い衆は何人も働きましたが、私ともう一人の兄弟子の二人しか年季の最後まで送れませんでした。ある職人などは入って3日でこなくなりました。
 そんな親方を私は尊敬して、年季4年を終了して一人前になりました。
 親方との思い出はたくさんあります。その中の大切な教えを今も守っています。「親方のところを出たら、人に使われずに一国一城の主になれ」でした。

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