1995年におきた米兵による少女暴行事件により基地の撤去を求める声が高まった翌年、世界一危険とされた普天間基地の返還が決まりました。しかし、20年後の今も普天間基地は残り、移設先とされたのは、また沖縄県内の「辺野古」でした。「移設」と政府はいいますが、滑走路が2本になるなど、普天間基地にない機能が強化される新基地の建設です。2004年4月からつづけられている新基地に反対し、埋め立て現場を監視するための辺野古の海岸のテント村での座りこみ、そこから数分のところにある米軍キャンプ・シュワブのゲート前では2014年7月からゲートに入る工事車両を阻止しようと団結小屋で座りこみを行なっています。座りこむ人たちの声をききました。
生き抜いたサイパン戦
基地があるから攻撃される
【横田チヨ子さん(87歳)の話】私は3歳で沖縄からサイパンに渡った、サイパン戦の生き残りです。宜野湾から通ってきています。
当時、サイパン島は海の生命線、沖縄は陸の生命線といわれていましたが、神国日本は負けるはずがない、ぜいたくは敵とアルミの弁当箱を供出し、バナナの葉をお弁当箱かわりに学校に通い、1944年3月に学校を卒業した私の希望は従軍看護婦となり満州に行くことでした。
6月11日から米軍の攻撃が始まり、13日には海一面の米軍の軍艦からの艦砲射撃の中を右往左往しながら実家に帰り、持てる物を持って家族との避難が始まりました。
途中、爆弾の破片で左足にケガをし、動けなくなりました。神経が切れ、今も痛みを感じませんが、遠くからの戦車の音に、「先に逃げて」というと、父が「死んでも家族は一緒だから、ここにいよう」と。何とか、兄が探してくれた木の枝を杖がわりに足をひきずって逃げました。
途中で父と兄を亡くし
その兄も、動けなくなった私のそばにきた時に、身代わりとなって迫撃砲に直撃され亡くなりました。「必ず迎えにくるから、兄さん許してと」いい残し、そこから逃げました。その攻撃で大ケガをした父も、しばらくして出血多量で亡くなりました。
途中、母と弟とはぐれ、最後は私と兄嫁の二人だけとなりました。海に入って死のうとしたけれど、死ねない。遠浅の海では死ねないのです。
2カ月以上逃げまどい、捕虜収容所へ。それから約1年半後、母と弟と何も持たずに沖縄にひきあげてきました。沖縄に残していった草だらけの土地をたがやし、みなさんと同じような生活ができるようになったのは、それから10年後ぐらいのことです。
今ここに、新基地を作らせたら、完全な軍港になります。もし爆弾ひとつ落ちたら、どんなに生きようとしたって不可能です。基地があるから攻撃されるのです。子どもや孫のために、作らせない。沖縄を捨て石にはさせない。
これからは話し合い、「いちゃりばちょーでー(あんたらみんな兄弟)」をだいじに暗闇の中、死んだ人の頭を飛びこえ逃げる、朝起きたら隣の人が死んでいる、そんな私たちが体験したつらい思いはさせない。だからこれからも、かちぬくまでたたかいます。
機能強化に環境破壊
費用の日本負担も筋通らぬ
【本部・竹内史朗記】テント村で村長と呼ばれている安次富(あしとみ)浩さんの反対理由は大きく「費用が日本負担」「基地機能の強化」「環境破壊」の3つ。
「普天間の負担軽減のお礼として辺野古の新基地建設に日本政府が費用を出すのは筋が通らない」とした上で、「2300億円という数字は埋め立てまで。それも当初予算で最終的にいくらになるかわからない。しかも施設の建設費用は含まれていません」。
「基地機能の強化」では、「辺野古には普天間になかった弾薬陸揚げのための港が作られます。代替じゃなく完全な基地強化、港から直接弾薬庫に搬入できると核兵器を持ちこまれてもわからない」と危険性を指摘しています。
最後に「環境破壊」については、埋め立てで大浦湾の青サンゴをはじめとした貴重な自然が破壊される、この自然を目あてに海外からも観光客が増加していることを紹介。さらに、埋め立て予定地でアカウミガメが産卵していることが米軍への共同通信による取材で明らかになったこと、辺野古基地の解体工事でアスベスト飛散防止措置が取られていなかったことなど、米軍と日本政府の非道に怒りをあらわにしていました。
「この豊な大浦湾を世界自然遺産に登録したい。もっと大勢の人に遊びにきてほしい。そのため、辺野古新基地建設は絶対阻止する」と力強く決意を語ってくれました。
平和な島を残したい
うちなんちゅの子どもに
【C・ダグラス・ラミスさんの話】私は2000年に東京の大学を退官し、那覇に住んでいます。
1960年には海兵隊として沖縄に駐留していました。ここにくるのは、もちろん新基地に反対だから。
私には中学生の子どもが2人います。沖縄で生まれ、沖縄で育ち、日本国籍を持つ「うちなんちゅ(沖縄人)」です。基地がある限り、沖縄は植民地です。法的には県でも、文化、政治、社会的にアメリカの植民地であり、自分の子どもたちは被植民者になってほしくない。他国ではなく、自分の住んでる社会の一番だいじな決定は、みずからが決められる、何とか主義ではなく、親としての責任として、なるべく自分の子どもが住む国は、健全で平和なところになってほしいからです。
沖縄と滋賀を結び
これは私たちの問題と
【キム・ミガンさんの話】「いかなあかん、ここが日本の『へそ』だ」と参加しています。なぜなら、新基地はまだできていないから。ここを止められれば、原発もヘイトスピーチも止められる、日本は変わると。
それに「沖縄がいらん」といっている基地を無理やり作るのは沖縄だけではなく、日本の市民の問題です。だから、おかあさんたちのメッセージボードを持参したり、希望する小学生をつれてきたり、必ず地元の滋賀と結びつける行動をずっとしています。
ここは世界に誇れるサンゴと人間のコミュニティがあります。都会で疲れた大人を見ていた子どもたちが、カッコ悪いながら一生懸命がんばっている姿を見て、子どもが育っているのを感じます。辺野古にきて元気をもらう、それはゆるぎない事実です。
日本中の関心を実感
多いとき1000人が座り込み
【稲葉博さんの話】沖縄に基地が集中していることは不公平で、差別以外のなにものでもありません。新基地建設には、今まで無関心でいた本土の人間として責任を感じています。
国は団結小屋のテントを設置するなといいますが、日本政府がやろうとする巨大な違法に抗議する方法はこれしかないのです。
ここでは早朝から沖縄はもとより全国から1日に200人、多いときは1000人もの人が座りこみにきますが、トイレがないので、送迎などをしています。夜、作業車がくるとなると24時間体制でかけつけても、1円もでません。ブラック企業ですよ(笑)。右翼が1日1万円といっていますが、出ていくばかり。送迎のガソリン代などの運営は、みなさんの支援でまかなっています。
私が参加するようになった2014年7月は集まる人は30人ほどでした。
けれど今や、全国の人が関心を持ち参加者はふえていると実感しています。
パワー集中させ阻止
原発事故問題も根は同じ
【堀田ちえこさんの話】もともと、原発事故の問題にたずさわっていましたが、議員立法で成立した子ども被災者支援法が骨抜きにされ、子どもたちが線量の高い地域に返されていくのを見て、原発も基地も根は同じ、突破口が必要だと感じていたとき、これだけ機動隊や警察にひどいことをされても毎日集まってくる、このパワーを集中して、新基地建設をとめられたら、ほかのこともできる。
沖縄や福島での「かわらない」「生きていくにはしかたがない」という思いも、社会をかえれば、その人たちのくらしもよくなる。もう、変えないと。
また、新基地工事で働いている人の中には生活のためなどで声をあげられていないかもしれない。もし、声をあげて仕事を干されたら、組合で支えるなど、労働組合のみなさんが立ち上がってくれたら、本当にうれしい。
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